誰にでも「人によく思われたい」という気持ちがあります。人によって「よく見せたい」と思う分野はさまざまでしょう。
- 経済的に余裕があるように見せたい人。
- 家柄が良く、文化的に見せたい人。
- 知識が豊富で「知的」に見せたい人。
しかし残念ながら、よく見せたい人ほどそう見られず、隠したい人ほどにじみ出てしまうものです。私はというと、今はあらゆることに対して「執着がない」「こだわりがない」と言えるかもしれません。
しかし、昔はそうではありませんでした。今では考えられないほど、くだらないことで見栄を張っていたのです。たとえば、「儲かっている」「オシャレ」と思われたいがために、高級時計を「右腕」にしていました。
なぜなら、雑誌に「こだわりのある人は右腕に時計をする」と書いてあったからです。また、右腕に時計をすると、右利きの場合、よく動かして使う機会が多い、つまり、時計を見せびらかすチャンスが増えるからです。
でも今から思えば、世の中はその時計が本物か偽物かも興味がない人が大半です。その上、ブランドものを見せびらかしても嫉妬されるばかりで、いいことはあまりありませんでした。そう、私は「見栄」とは、ほとんどが自己満足だとあとから実感したのです。
ここで一つ、お伝えしたいのが、「見栄」と「プライド」の違いです。見栄は、まわりに対し、自分を実際以上によく見せようとする気持ちのこと。一方でプライドは、自分自身や自分の言動に対する誇りのことです。
言葉を変えれば、見栄が「こう思われたい」という外側を意識した気持ちに対し、プライドは自分の内側に目を向け、自尊心を維持する心です。そのためプライドは、自分を奮い立たせるエネルギーとなることも多く、手放す必要はないと考えます。
多くの見栄は、お金や知識など「自分には足りない」と思っているものがあることから生まれます。私は、足りないものに目を向けるのではなく、今あるものを知り、すでに手にしている幸せを最大化していくことが、よりよい人生を送る近道だと考えます。
今に不満を抱え「足りないものを手に入れたら幸せになれるはず」という考えだと、何かを手にしてもまた、新たなに満たされない思いが出てくるばかりです。見栄を少しずつ減らしていくためには、自分なりの幸せを追い求めてみることから始めるのもいいでしょう。
さて、これまで「お金」「愛」怒り」「嫉妬」「他人の評価」「見栄」について、その向き合い方を見てきました。
たびたび触れていますが、私は親鸞の教えに出会い、死を意識して「今」を充実させるようになりました。すると、会う人にときおり「愛葉さんは、悟ってますね」と言われることがあります。
でも私は、悟りの境地になどまったく至っていないので(笑)、そのように言われると驚きます。まだまだ欲だらけだとも言えますが、試行錯誤しながら、さまざまな執着を手放してきました。
人は生きているだけで、知らず知らずにいろいろなものをため込みます。心にべったり貼りついた何かのせいで、仏教でいう「苦」(思い通りにならないこと)が生まれていることも少なくありません。
「でも、“執着”をすべて手放したら、“世捨て人”のようになってしまわない?」と思う人もいるでしょう。
私は、「お金」「愛」「怒り」「嫉妬」「他人の評価」「見栄」のをすべて手放すようにすすめているわけではありません。どうやって少しずつ減らしながら、うまくコントロールしていくかをお伝えしたかったのです。
人が、モノやコト、そして人に執着してしまう本当の理由は、自分の気持ちを見ないようにするためです。「仕事がデキないやつと、バカにされたくない」「着飾らないと、まわりに埋もれてしまう」などという気持ちに直接向き合うのがつらいため、「もっと成績を上げなければ」、「どうにかすれば、もとの関係に戻れるかも?」、「とにかくブランドのロゴが目立つものがほしい」などという行動に走ります。
執着をうまく減らすようにすると、最終的に見えてくるのは自分自身の心です。そして、自分は何を本当に求めているのか、どうすれば幸せになれるかがクリアになります。「お金」「愛」「怒り」「嫉妬」「他人の評価」「見栄」を、少しずつでもそぎ落としていくことで、悩みや苦しみを減らし、今をよりよく生きられるようになります。
そのように断言できるのはなぜか。その裏付けとなっているのが親鸞の教えです。すでに紹介した「他力本願」はその一つです)。今回は非常に長くなりましたので、続きは次回に譲りましょう。