親鸞の教えを語る際に欠かせない「他力本願」について、今回は「努力」という観点から掘り下げてみたいと思います。
「他力本願」とは、決して何もかもあるがままにまかせて、何もしないということではありません。ときには、寝る間も惜しんで力を尽くすこともあるでしょう。でも、何のために「努力」をするのが大切なのか。ちょっと考えてみると「他力本願」の教えが理解しやすくなります。
「努力」というと、つらく苦しいことと思われがちです。でも、自分の好きなことや得意なことに没頭している時間は「努力」だと感じないほど楽しい時間ではないでしょうか。ゲームが好きなら、深夜まで起きて何時間も画面を見ていることがつらくも何ともないはずです。
私も、普通の人なら絶対やりたくないと思うようなハードなトレーニングをして、翌日、筋肉痛になることが楽しくてしかたない時期がありました。親鸞も、9歳で出家して29歳で比叡山を降りる決意をするまで、20年もの間修行をしています。
これもはたから見たら「長く苦しい修行をよく20年も……」と思うかもしれませんが、本人にとってはお釈迦さまの教えにどっぷりと浸ることができた20年は、あっという間だったのではないでしょうか。
好きなことであれば「努力」と感じない経験は、皆さんにもあると思います。どうせ努力をするなら、自分ができること、やりたいことに力を注ぐべきなのです。
私は、20代で中古車販売の会社をスタートし、その後、たくさんの事業を立ち上げます。最初のうちは経営は順調で、まわりに言われるがまま人を雇い事業を拡大していきました。でもお金が儲かっても、実は経営者でいることがつらくてしかたありませんでした。
いい大学を出て、一流企業に就職するという、当時の出世の王道から外れていた私は、どうにかして世間やまわりを見返してやろうとビジネスを始めました。しかし「経営者」は、本当にやりたいことではなかったのです。
日本では、一般的に「苦手をなくす」教育が行われます。たとえ国語でいつも80点を取っていても、算数が20点なら、国語をもっと伸ばすのではなく算数の点を上げるよう指導される。社会に出てからも、営業や企画など、さまざまな部署を経験させて苦手を減らし「ゼネラリスト」をつくろうとします。
しかし、苦手なことに労力を費やしても、さほど得意にはなりません。そうであれば、できること、好きなことに集中したほうが可能性は広がります。一度きりの人生、苦手を克服するようなつらく苦しい努力は手放し、自分ができること、やりたいことに力を注ぐ、楽しい努力をしたほうがいいのです。それこそ、自分自身の心に向き合うことにほかなりません。
また、人は「誰かのため」ならがんばれるという性質を備えています。仏教の「自利利他」という言葉も、「誰かを幸せにすることで、自分も幸せになれる」という意味です。身近にいる好きな人のため、家族のため、まわりを幸せにしようとがんばるのも、「他力本願」の考えを支える一つです。
一つ注意点を挙げるなら、「何のためにしているのか」わからない努力はしないことです。多くの人は、「努力することはよいこと」だと無意識に刷り込まれ、苦労した分だけ成果が得られるはずと思い込んでいます。
しかし、目指すところが明確でなかったり、間違った方向へ向かう努力は実ることはありません。「努力は必ず報われる」と信じて、目的地に向かわない努力をひたすら続けるのはやめましょう。