書いた人:仏陀倶楽部 会員
明日も今日と同じように続くと思っていても、命の終わりがいつ訪れるかは誰にもわかりません。本レポートでは、友人と妻との突然の別れを通して痛感した命のはかなさと、そこから見えてきた「今」の生き方を振り返ります。出会いや言葉を大切にすること、「無財の七施」を心がけること、そして阿弥陀如来の本願に支えられて生きること。死への不安を抱えながら、今日をどう生きるのかを考えます。
明日があるという思い込み
私たちは、明日も今日と同じように生きていると無意識に考えています。しかし、真宗で親しまれている「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」という言葉は、その思い込みを戒めています。
蓮如上人の「白骨の御文」では、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」という言葉で、命のはかなさが示されています。若い人が年老いて死ぬという自然な順序ではなく、誰が先に亡くなるかわからないという事実、そして人生には必ず終わりがあり、その時がいつ訪れるかは誰にもわからないことが述べられています。
私の友人の一人は、一緒に夕食を楽しんだその日に車にはねられて亡くなりました。私の妻についても、病室で「また明日」と手を振って別れた数時間後、亡くなったとの知らせを受けました。
私は、人間の力で死を予測することはできず、ひとたび別れが訪れれば、絶対に取り返しのつかない状況になることを痛感しました。
限られた時間にできること
私は、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」という言葉を、以前から強く意識して生きてきたつもりでした。しかし、まだ十分ではなく、多くの後悔が残りました。
それと同時に、人間にできることには限界があるからこそ、その限られた時間をいかに使うかが重要であることにも気づかされました。
そこから、私が今やるべきことの基本は出会いを大切にし、聞くべき教えを聞き、伝えるべき思いを伝えておくことだという考えに至りました。これは「無財の七施」に示される、相手に安心を与える慈悲の行いにも通じるものだと思います。
「今」ということへのこだわりも重要です。私たちは、「まだ死なない」という思い込みに気づく必要があります。それに気づくことで、今の生き方を問い直すことができるのです。
明日が保証されていないからこそ、今この出会いを大切にし、聞くべき教えを聞き、伝えるべき思いを伝えることが必要です。今やるべきことは、「無財の七施」を大切にしながら日々を生きることではないかと考えています。
本願に支えられて生きる
死に対して後悔の少ない生き方を心がけることは大切です。しかし、それだけで死への不安がなくなるわけではありません。阿弥陀如来の本願に支えられて生きていくことも、大切であると感じます。
人は死を避けることができないため、その事実に不安を抱きます。しかし親鸞聖人は、その不安を自分の力で解決しようとするのではなく、阿弥陀如来の本願にまかせて生きる道を示されました。
他力本願とは、自分の努力を放棄することではありません。自分の力の限界を知らされ、そのうえで阿弥陀如来の本願に支えられて生きる教えであると学びました。
愛葉代表の著書の中でも述べられていますが、死を考える目的は、死の準備ではなく、今日を生きることにあります。私は、死への不安をなくそうとするのではなく、その事実を忘れず、阿弥陀如来の本願に支えられながら、「無財の七施」の実践を心がけて生きていきたいと思います。
死を見つめることは、死のために生きることではなく、今を大切に生きることです。それが、私なりの「死への不安と生き方」への一つの答えです。
南無阿弥陀仏。





















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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