お釈迦様が2500年前に始めた仏教は、時代とともに解釈が変わり、さまざまに分派しました。そして現在では、各宗派により、礼拝や仏事に関してのノウハウである「作法」が異なることも少なくありません。
たとえば、葬儀のときにあげるお線香の本数や置き方まで、臨済宗や曹洞宗では「1本を折らずに真ん中に立てる」、真言宗や天台宗では「3本を逆三角形に置く」などと、宗派によって定められています。
正直、私は作法にこだわりすぎる必要はないと考えます。作法はあとからできたものです。得度を希望されてきた方の一人は「仏教に親しみたい」と別の場所で得度を願い出たことがあったけど、細かい決まりごとなどが多く、あまりにも敷居が高すぎで断念したという経験をお持ちでした。せっかく仏教に関心を抱いてくれたのに、それではあまりにももったいない。
本来なら、どの宗派でも誰でもお坊さんになれるはずです。それが、誰もが平等に救われると説いた仏教の教えの本質だからです。形やルールにこだわりすぎて、人々を遠ざけてしまうのは本末転倒ではないでしょうか。

私たちは、誰もが平等に救われることにフォーカスしていきたい。そして、多様な方々を積極的に受け入れ、もしかしたら肩身が狭い思いをしていたかもしれない人たちにも居場所を提供していきたいと考えています。
そもそも親鸞は、上層階級のものであった仏教を「悩み苦しむ民衆に伝えたい」と、結婚して肉食をするなど既成の形を打ち壊してまでも広めた方です。私たちも、その志を今に活かして、より多くの人たちに仏教の教えを伝え、今を幸せに生きてほしいのです。
お釈迦様が始めた仏教は、2500年前のインドでは「新興宗教」でした。そのころのインドでは「カースト制度」という身分制度を生んだバラモン教が主流であり「人は皆、平等である」と説いた仏教は、例外的な教えだったのです。そんな仏教を「カッコいい!」と考えて、僧侶になった人が後を絶たなかったといいます。
またよく、ビジネスなどで大成功したカリスマ経営者のインタビューを見ると、社会の役に立ちたいなどの崇高な動機ではなく、「“社長”ってカッコいいし」「モテたかったから」と正直に答える人も少なくありません。
私は、お坊さんになるのも「カッコいいから」「おもしろそうだから」、そして「尊敬されるから」といった動機も大いにありだと思っています。動機は不純でもいいのです。なぜなら、親鸞、そしてお釈迦様の教えは一つだからです。
仏教という建物は、必ず真正面の入り口から入らなければならないわけではありません。横からでも、裏口からでもいいのです。得度するきっかけはなんでも、仏教の教えに触れ、日々に生かすことが最も大切なのです。