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煩悩具足の凡夫(前編)

人は必ず死にます。それが故に今どう生きるかを考えるのが仏教の教えである。

この基盤をしっかり認識した上で深めていくときに前提としなければならないこととして、親鸞聖人の「煩悩具足の凡夫である」という教えです。この教えは人は煩悩に手足が生えたような存在だとご自身のことをそう表明されました。これはなかなか言えることではないと思います。親鸞聖人は9歳で得度され、以後20年間、比叡山延暦寺で煩悩をなくすため厳しい修行をなされました。しかし結果は煩悩が消えることはなく絶望されたとのことです。その後比叡山を降り、法然聖人と出会い煩悩があるままで救われるという教えに救われ今日に至ります。

繰り返しになりますが、人は煩悩をなくすことはできない。これは対人援助職を長年続けた私自身、非常に納得するものでありますし、私自身のこととしても煩悩がなくなる状態は全くイメージがわきません。煩悩をなくすことはできなくても、もっとコントロールできるようになればと、どうにか小さくならないものか努力してみることもあるのですが、その取組も三日坊主。小さくなるどころか日々煩悩が湧き水のようにこんこんと湧いてくる事実に直面します。もはや煩悩に手足が生えているような。。。本当に親鸞聖人は秀逸な教えをくださいました。

しかしここで納得しとどまっては、湧き上がる煩悩に飲まれ苦しむ毎日は解決ぜず、絶対の幸福(信楽)には至れません。煩悩はコントロールできなくともその湧き上がる源流というか、煩悩の正体に迫ることはできるかと思います。この作業は言うは易しなものであり、煩悩の正体にはその人の弱さがあることはぼんやりとでもイメージできますので、つまりは弱さに向き合う作業、これは大変に勇気がいる作業です。

煩悩は108あるとされています。その中で代表的で強いものとされているのが、三毒の煩悩、『貪瞋痴』です。

貪(貪欲)・・・際限なく貪り求める執着する心
瞋(瞋恚)・・・怒り、憎み嫌悪する心
痴(愚痴)・・・物事の真理を知らず、物事の理非が解らず迷い戸惑う心

この煩悩がそれぞれどのような事をなすのかということはまた別の機会として、今回はその煩悩が何から生まれるかに焦点を当てたいと思います。
いわばこのような荒んだ心を親鸞聖人は暗い心と教えられます。この暗い心の発生源はスバリ、“欲”となります。人には欲が5つあると仏教では教えられます。これを五欲と学びます。

財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲

これら五欲も際限なく湧き上がるものです。どんなに欲がないと言われる人であっても、その源泉はあり、わずかながらに湧き出ているものです。その量が多いか少ないかの違いであり、まったくないという人は人にあらずと言っても過言ではないでしょう。この欲に執着し際限なく追い求めることにより、その心が煩悩へとクラスチェンジすると理解しやすいです。
では更に探求していきましょう。この五欲は何から生まれるのか。私はここで“八識”に目を向けていきたいと思います。八識とは仏教において人の内なる仕組みを説明したものです。人の内なる仕組み、機能は8つに分けられるというものです。

眼識、耳識、鼻識、舌識、身識※

意識、末那識、阿頼耶識

以上の8つとなります。上段にある5つの識はわかりやすく言えば人の五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と言えるでしょう。
※身識は触覚と置き換えるとイメージしやすいが、脳の仕組み的にいうと、固有感覚と前庭感覚を加えるとさらに理解が深まります。

下段に表記した3つの識はフロイトが提唱した心理、超自我や共有意識の世界となっていきます。
人は生きるに当たりこの8つの識が働くことにより生きるが維持されます。特に日常的にわかりやすく働きを認知しやすいのは五感とも言える5つの識です。

これらの識を満たすことは心地の良いことですし、快楽や快感、悦に繋がっていきます。逆に満たされないと不快に感じ、嫌悪や敵意、自己防衛、逃避に繋がっていくでしょう。つまりは人はこの世に生まれ落ちた瞬間より、八識、特に五感とも言える5つの識を満たそうとする生き物であり、それが人の生きるという作業の現実とも言えるわけです。まさにこれを人として生まれた以上、の逃れることのできない宿命といえます。

ここまでを前編とし、ここから更に探求していきます。

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