私が仏教の教えを身近に感じてほしいと思っている背景には、当然、多くの人にとって仏教の教えがなじみのないものになっているためです。意外に思うかもしれませんが、日本全国にあるお寺の数は7万5000と言われており、どこにでもあるように思えるコンビニの数のおよそ約5万6000店よりも多いのです。それなのに、なぜ仏教の教えに親しむ人が減っているのでしょう。
近年「葬式仏教」という言葉が広まっています。寺院の活動が葬儀や法事に限られ、また私たちが仏教に触れる機会も葬式だけという現状を表して、こう呼ばれています。そもそも庶民がお寺で葬式を行うようになったのは、江戸時代以降です。
すべての民衆が、当時、危険視されていたキリスト教などの宗教の信者でないことの証として「いずれか寺院の檀家になること」を義務付けられてから、僧侶による葬式が一般化しました。
「檀家制度」とは、葬儀や法要にまつわるすべてを特定の寺院が永続的に担当し、その代わりにお布施を受けるものです。その頃のお寺は、檀家制度によって家ごとの誕生や死亡を記録し、転出入の確認なども行う市役所のような役目も担っていました。
ところが、明治時代に檀家制度は廃止されます。そしてその後、1950年代後半から始まった高度成長期に伴い、人々は仕事を求めて都市に向かいます。多くの人は、故郷を離れると伝統的な宗教との結びつきが薄くなります。
私が子どものころは、実家で自然と仏教に親しんでいました。家にはお仏壇があり、毎月のようにお坊さんが月経(つきぎょう)として、お経をあげにきます。両親も、毎日のように仏壇に手を合わせ、いただきものや朝ご飯などは真っ先に備えていたのです。
しかし私も、実家を出たあとは家に仏壇を備えていません。多くの人も同じように、都市で暮らすようになると、実家にあった仏壇やお墓と遠ざかり仏教と縁が薄くなるのではないでしょうか。
自分の家は、どの宗派を信仰していたのか、特定のお寺の檀家だったのかなど知らないまま都会で暮らし、身近な人が亡くなったときに初めてあわてて仏教に触れるようになっているのが現代なのでしょう。

また、お葬式の仕組みが明快でないことも、仏教を身近に感じられない理由として考えられます。人類は、どんな国でもどの宗教でも、そしてどの時代でも、さまざまな形でお葬式を行なってきました。
でも、日本では葬儀費用が諸外国と比較して飛び抜けて高額です。少し前の1990年代の調べになりますが、アメリカではおよそ44万円、ドイツはおよそ20万円、イギリスは12万円です。一方で日本は、地域差があるにしても平均して231万円だという調査があります。先進国の多くと比較して「0」が一つ多いのです。
近年では「家族葬」と呼ばれる、家族だけの葬式も増えてきましたが、まったく葬式を行わないケースはまだまだ少ないと言えるでしょう。葬式を行わないと、亡くなった人に対し失礼である、故人と関わりがあった人は気持ちのけじめがつかないなどの理由があるのでしょう。
個人的には、自分が僧侶でありながら、人が亡くなったときに必ずしもお坊さんがお経をあげる必要はないと思っています。専門家の手を借りるのは最低限でいいと考えます。もちろん、盛大なお葬式をしてもらいたい人もいるでしょうから、家族で生きている間にしっかり話し合っておく必要はあるでしょう。
でも親鸞は、ただひたすら、生きている間に幸せになるためにはどうしたらいいかを説いただけで、人が亡くなったときに「立派な葬式をやりなさい」とは言っていないのです。
日本で死者が出たときにやるべきことは、まず医師に死亡診断書を発行してもらうこと。次に、地域の役所に死亡届を提出すれば「火葬許可証(埋葬許可証)」が渡されるので、死亡してから24時間後以降に、火葬や埋葬を行います。本来、法的に必要な行動はこれだけです。
もちろん、自分で火葬したり勝手な場所に埋葬することはできません。ですから、火葬や埋葬にはそれぞれの専門家の助けが必要でしょう。でも、お葬式については何の決まりもないのです。私はこの金額を、残された家族でおいしいものでも食べながら死者を弔う費用に充てればいいと思っています。
ときどき、立派なお葬式をしないと「亡くなった人を大切に思っていないようなやましい気持ちになる」「バチがあたりそう」という人もいます。でもそれは「自力」で、「いいことをした」と思いたい、残された人の考えです。みんなが「今」をせいいっぱい生きることができれば、亡くなったときに不要なお金をかけて儀式を行う必要はないのです。
