私は、お釈迦様が大好きだ。壮絶な人生と壮絶な修行を得ているが、真理に到達されず、それでも『人の生きる』を解りたい純粋だった、お釈迦様という人間が大好きだ。
あくまで、お釈迦様は『人の生きる』という事にのみ焦点を当てて真理に到達された。それは生きているうちにしか到達できないと断言され、死ぬまでどう生きるかをメソッドとして教えてくれた。私も、その境地に憧れてしまう煩悩具足の凡夫である。
本当は既に、全て完璧に備えて生きているというのにもかかわらず、自己否定、変身願望、恐怖から自由ではない。さて、どう真理に到達したら良いものか。とりあえず、お釈迦様のマネでもしてみようか。
難行苦行の果てに…空腹と渇きの果てに乳粥で生を取り戻す体験が必要か。これも道なき道を歩まれたお釈迦様が、歩まれた道ではある事は間違いないが、真理に到達する必要条件ではないと思う。身体的な損傷、機能低下、心理的な絶望など半死半生からの他人による生還は、まさに他力であるし、死んだら何も得られない、生きているからこそ得られるという気付きにもつながる。こう考えられるのも、2500年前にお釈迦様が経験されたことを、お弟子さんたちが残してくださったからこそであり、マネしなくても学ぶことができる。大感謝である。
仏教で、“木”は重要なものであると考える。お釈迦さまは菩提樹の根元で真理に到達された。その真理はいまだに解りきれないが、“木”というモノが、ただのもたれかかる植物というだけの意味ではないのではないかと考えている。もちろん、身体を支えてくれる時点で他力なのだが、木、つまり植物は様々な気付きを与えてくれる。
先ずは時間軸。木を含め植物の時間軸は、あっという間に生命サイクルを終える物から、悠久の時をまたぐものまで幅広い。短いものは儚さや時間の尊さを感じさせる。まさに諸行無常である。悠久の時をまたぐものは、その途方もない長さゆえに、まるで時間の概念が無くなるような錯覚を覚えるほどである。その長い長い時間を植物は過ごす。すると、その植物の周りが目まぐるしいスピードで変化をするように見えてくる。その変化は何が生み出しているかと言えば、まぎれもない人である。人とはやはり、諸法無我であると感じざるを得ない。
次に適応する力である。動物の適応能力よりも植物の適応能力は、進化のそれよりもはるかに早いとされている。どんなに過酷な環境であっても、豊かな環境であっても、その時その状態に合わせ形や在り様を変化させる。そして生き続けたり絶え間ないサイクルが回る。真理は揺るがないモノであり、方便はそれを説明するものであると知る。故に、形やスタイルに、なんのこだわりを持ちえない状態も解ってくる。しかし人は、いくら植物から学べても人である。その悠久の時を楽しめない構造となっている。そのくせ、ふんだんに沸き上がる感情と思考。わかっているのに、どうにもならない現実に対して恐怖におののく。これぞ、一切皆苦の基であろう。
ここまで、お釈迦様に想いを馳せたけれど、涅槃寂静がどうしてもうまくいかない。でも、お釈迦さまと言う人間は、その真理まで到達した。でもこれって「0=∞」、つまり空という事が本当の意味で理解出来たら、あらゆる恐怖も自分に溶かし込めるのではないかなって最近思う。
お釈迦様の事は大好きである。しかし本当は憧れているだけかもしれない。憧れているという事は、私自身が勝手に“無い”と思い込んでいるから、“有る”と決めつけた対象に想いを馳せているだけ。本当は全て備わっている。無いも有るもない。すべては完璧に備わっている。お釈迦さまも私もない。「0=∞」つまり空。これだけでは涅槃寂静とまでは行かないけれど、なんだか気持ちが穏やかには慣れそうである。
まだまだ私の仏教スランプは続きそうである。でも、それがいいじゃない。