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曹洞宗と浄土真宗の僧侶が語る、仏教のこれから

曹洞宗と浄土真宗の僧侶が語る、仏教のこれから

2020年12月、コロナ禍の只中に行われた対談の記録です。曹洞宗・塔世山四天王寺住職の倉島隆行さんを迎え、宗派を超えて顔を合わせ、日本社会の分断と孤立、そして仏教の届け方について語り合いました。「仏教という商店街は長らく関係者以外立ち入り禁止だった」「経験に基づかない法話はただの言葉遊びになる」――時代に対して正直であろうとする2人の言葉を、当時の空気ごと残すために、ここにあらためて掲載します。(聞き手:編集部)

※本対談は、2021年5月刊行『人生を変えるのに修行はいらない』(愛葉宣明・著/白夜書房)収録の内容を、加筆修正なしで再録しています。

仏教徒から見た日本の今

――お2人は仏教徒として、日本の現状をどう見ていますか?

倉島 生きづらい社会になっていると思います。一人で苦しんでいる人が多い。というのも、戦後、日本人はずっと集団的幻想の中で生きてきました。「巨人・大鵬・卵焼き」(※)という言葉があったように、自分が好きなものはみんなと一緒だった。大衆の中の自分という安心感がありましたね。

ところが、個人主義の時代になったことで、自分のことはすべて自分で責任を持つという自己責任論が浸透しました。その結果、社会の分断が進み、個人は帰属意識を持ちづらくなってしまった。
※昭和時代の流行語。プロ野球の巨人軍、横綱の大鵬、料理の卵焼きを並べたもの

愛葉 昔はいまほど人が移動しなかったことも関係していますよね。行動範囲が狭かったから、地域社会がしっかり機能していた。私の実家は問屋街だったんですけど、小学校から問屋街に返ってくると、街の人が「おかえり」と声をかけてくれた。みんなが顔見知りだったんです。

倉島 そうしたコミュニティーがなくなると、「自分の存在を知る人がいないのではないか」という不安にかられてしまうのです。だから、誰にも悩みを打ち明けることもできない。本来であれば、仏教がその役割を担うべきなのですが、いまの日本人は仏教に触れる接点――お寺に来たり、お坊さんに会ったり――が少なくなっています。

――葬式仏教と言われるほど、仏教は非日常のものという人が多いですよね。

倉島 幼少期からおじいちゃんやおばあちゃんが仏壇に手を合わせたりお墓参りしたりしている姿を見ていれば、自然とのその姿を真似するようになる。つまり種が植えられているわけです。ところが、家族が離れ離れで暮らすことがふつうになると、仏教とはまったく無縁の生活を送ることになるので、非日常的なものになっているのでしょう。

ただ、身の回りに目を向ければ、仏教の教えが生かされていることはたくさんあります。たとえば、歯をみがくこともその一つです。実は曹洞宗の開祖である道元は、実は環境衛生の第一人者で、中国から歯みがきの作法を伝えたと言われています。

道元が中国に行ったとき、えらいお坊さんの口がとても臭かったそうです。「こんなに偉いお坊さんなのに、悪臭で鼻が曲がる」と経典に書いてあります。だから、歯みがきをはじめ、身の回りをきれいに整える作法をアレンジして日本に持ち帰ったのです。日本人の環境衛生に対する意識の高さは800年以上も前から仏教伝来とともに取り込まれた生活習慣と言えます。

――ずっと続いてきたことにはそれなりの理由があるわけですね。今は何につけても「エビデンスは?」と根拠を求められるせいか、過去から受け継がれてきた知見を大事にする意識が薄いかもしれません。

倉島 これは経済の影響もあると思いますが、みんなが豊かなときは「ご先祖さまのおかげでいい暮らしができている」という感謝の気持ちを持つことができました。今は格差社会で、若い人たちは平均所得も下がり、結婚もできない。将来もらえる年金だって減るばかり。その一方で、悠々自適に暮らしている人もいる。そんな状況で「先人たちに感謝しましょう」とはなかなか思えないし、過去に目を向けることもできませんよね。

倉島隆行(くらしま・りゅうぎょう)
四天王寺(三重県津市)の住職、全国曹洞宗青年会の前会長
3歳の頃より祖父から坐禅指導を受ける。愛知学院大学卒業後、大本山永平寺にて2年間修行。フランス・ドイツでの参禅修行を経て、その後、全国曹洞宗青年会の会員として各地で発災する自然災害にボランティアとして活動する。2017年に全国曹洞宗青年会第22期会長。さらには全日本仏教青年会理事を経て、同会第21代理事長に就任。現在は宗派の垣根を越えて活動している

愛葉 私はもともとビジネスの世界にいましたが、うまくいっている人は一部で、多くの経営者は毎日苦労しています。悩みの多くはお金に関することで、最初は銀行に救いを求めるけど、困ったときは救ってくれない。晴れたときは傘を貸してくれるけど、雨が降ったときに貸してくれないのです。そして、銀行がダメなら次は身内や知り合いを頼る。

銀行と違って人間関係は簡単に清算できないわけですよ。人間関係で苦しい思いをしたり、しらがみが増えたりすると、人の心はどんどん固くなってしまいます。現代人はこうしたストレスに日々さらされているといっていい。それに対して、仏教の教えは役に立つことができます。だからこそ、仏教がもっと身近なものであってほしいんです。

仏教は即効性のある薬なのか!? 宗派による救い方の違い

――いまだ続く新型コロナの影響で、人々が内省的になったと言われています。仏教に心の平安を求める人も増えているのではないでしょうか。

倉島 仏教で救える人たちはたくさんいます。ただ、現代人は即効性のある薬を求めがちです。これが効かないから次は違うものを試そう……となってしまう。時間的な猶予がないから、余計に苦しいんですよ。ところが、仏教は即効性のある薬ではありません。急に目覚めるものではなく、時間をかけて根付いていくものです。

――やはり、救われるためには修行が欠かせないということでしょうか?

倉島 仏教には「仏・法・僧」の三宝(さんぼう)という三つの宝があります。仏陀、仏陀の教え、その教えを具現化した修行のどれか一つでも欠けてはなりません。人間の血液が新しく生まれ変わるのに3カ月かかると言われていますが、お釈迦様も90日の修行をしなさいとおっしゃっています。

修行に関しては、念仏を唱えたり写経をしたりいろいろありますが、曹洞宗は只管打坐によって悟りの境地を得ようとする特徴があります。ですから、四天王寺ではよく座禅をします。ある不登校だった女の子も一緒に3カ月、座禅をして立ち直ったこともありました。

――ストイックでいることは大事ですか。

倉島 そういう時期はあったほうがいいと思います。ビニールハウスにずっといると、その環境が当たりまえになってしまいます。凍結解凍覚醒法という、植物の種を徐々に冷却して凍結させることで耐寒性を備えさせる技術があります。簡単に言うと、氷河期の経験をさせて、種がもっている潜在能力を引き出すわけです。
快適な生活を手に入れたことで失った、もともと人間が持っていた可能性。それを覚醒させるためにも、修行は有効だと思います。

――浄土真宗では念仏=南無阿弥陀仏と唱えるという、斬新なものですよね。

愛葉 仏教は元々、社会的地位の高い、一握りの人間のものになっていました。でも、親鸞は目の前で苦しんでいる民衆こそ救われるべきだと、仏教の教えを伝えてきました。その一つが念仏を唱えることです。

親鸞も9歳で比叡山に入山し、20年以上に渡る修行もしました。ただ、その後の親鸞の道のりを考えれば、「○○しなければいけない」「学ぶためにはこうしなさい」といった「べき論」ではないと思っているんです。現代人は忙しいから仏教をしっかり学ぶ時間がなかなか持てないですよ。あえて言えば、地域社会やコミュニティーにおける活動そのものが修行です。だからこそ、親鸞は唱えるだけ、想うだけでいいとおっしゃっている。

――宗派によって考え方が異なりますね。

倉島 仏教という商店街があったとき、自分に合ったお店があるわけですよ。コーヒーショップに「スターバックス」があれば「タリーズコーヒー」もあるのと同じです。自分がサードプレイスとしてどこの環境に行くのがいいのか。あなたが足を運ばなければわからないんです。仏教はデリバリーされるのを待っていても来ません。

仏教という商店街は長らく関係者以外立ち入り禁止でした。その点で、愛葉さんのこれからの活動はそれを変えようとしているとも言えます。くり返しになりますが、仏教に触れる選択肢は増えたほうがいい。悩みも多様化しているわけですから。
四天王寺にビジネスで失敗した人が来ても、その失敗を挽回する手立てをお伝えすることはできません。「経営で苦しんでいる人はこう救いましょう」という言葉は経典には書いてないからです。

一方で、もし愛葉さんのようにビジネスも一通り経験している人なら、違ったアドバイスをすることもできるでしょう。経験に基づいた法話でないと、ただの言葉遊びになってしまう危険だってあるのです。

――仏教の教えは普遍的なものだと思いますが、時代に合わせてアップデートを続けているということでしょうか。

倉島 普遍のものではありますが、その時代に合わせて翻訳するのが私たちの仕事です。社会の中での仏教のあり方をつねにアップデートしなければなりません。今の社会ならではの悩みも苦しみもある中で、お坊さんだけが伝統に固執していては対応することができないのです。「昔はこうだった」「僧侶はこうあるべきだ」にこだわりすぎると、ジェンダー問題であれLBGTQであれ、今の社会では納得されない考え方におちいりやすくなってしまう。

行基という奈良時代の高層は、治水工事でスコップを持って、土木作業をしました。当時、水害に多くの人が苦しめられていたので、リーダーシップを発揮して、住民たちと一緒に泥にまみれて、水害に対応した。それが行基の生き方であり、私にとってあこがれの存在です。

愛葉 我々はすぐに答えを出す立場ではありません。過去から受け継がれてきたものを未来に繋いでいくのが役目です。その過程で救われる人がいる。たとえ立場が違っても、基本的な考え方は同じなんです。宗派が異なるとコミュニケーションは少ないと思われるかもしれませんが、私はさまざまな宗派の方と対話を重ねることで、多くのことを学ばせていただています。

宗派を超えたつながりは可能か?

――倉島さんは伝統教団に所属しているという身でありながら、仏教のあり方に関しては柔軟な考えをお持ちですね。

倉島 青山俊董老師が以前、「病気になって生きることが大変なことに気づいた。そんな病気に対して南無病気大菩薩という感謝の気持ちを持つことで、生きることに前向きになった」という旨をお話ししていて。

苦しみや悲しみをどう捉えるのか――お坊さんがアドバイザーとして一人ひとりに合わせたレッスン方法、アプローチ方法があるんじゃないかと、そのとき私は思ったんです。何が正解かはわかりません。いろいろなレッスンを受けて、異なるアプローチ方法を試してみて、気づきを与えてもらうというのが仏教のあり方なのではないかと。

――それまではわりと昔ながらの価値観だったんですか?

倉島 私は四天王寺の住職になる前、永平寺で修行をしたのですが、永平寺はゴリゴリの出家至上主義でした。私も出家することが大事であって、ましてや浄土真宗は髪の毛を生やしてチャラチャラして……これが同列のお坊さんなのかと思っていたほどです。ところが、愛葉さんのように時代の変化を感じている人を拒絶すると、思考が止まってしまうと思うんですよ。私が永平寺で修行していたときは、「お寺とは、僧侶とは」という感覚で止まっていましたから。

浄土真宗は日常を重視するという話もありましたが、社会のほうがつらいことはたくさんあるんですよ。永平寺ではお金の勘定をしなくてよかったし、出世するというわけではなくて、わらじを脱いだ順番で、上下関係が決まっているので、出世したいとかお金が欲しいという気持ちが起こらない。修行に専念できる環境でした。

今の日本仏教があるのは浄土真宗のおかげとも思っているんです。昔の日本はすごい差別社会でした。たとえば、ハンセン病が発生したとき、仏教界では「これは先祖のたたりだ」「信仰が薄いからだ」といった声が上がった。輪廻転生と結びつけて患者さんをののしることすらしてしまった。

でも、浄土真宗の和尚さん――この人はお医者さんだったのですが――は、「これは生前の悪行でなったものではない」と断言したんです。一人でもそういう人がいるというのは、浄土真宗の多様性の特徴だと思いますね。女性のお坊さんが多いのもその一つです。

――倉島さんは超宗派の活動も活発ですが、そのあたりも影響しているんでしょうか。

愛葉 宗派の違いは本来、とても大きなものでしたよね。それこそ戦っていたほどですから。倉島さんの所属する全日本仏教青年会は宗派を超えていろいろな人と交流します。このような取り組みは、すばらしいことだと思います。

倉島 とはいえ、私のように伝統教団にいる身としては「これを言ってはいけない」「これはダメだ」という制限もありますし、ときには専門用語も使いすぎてしまう。なんでも「諸行無常」と言って済ましてしまうことすらあった。そうなると、聞いているほうは何がなんだかわかりませんよね。そんなすれ違いをずっとやってきたという面もあります。

海外でお坊さんに会うと、経典の解釈も自由なんです。今の言葉で、今のお経をつくればいい。それは伝統教団に所属するとできません。解釈を曲げたり、使い分けたりするのは非常にデリケートな部分だからです。それが、愛葉さんならできると思うのは、相手を救うためにはどんな方便を使ってもいい。

私と愛葉さんは立場がまったく異なりますが、相乗効果があるのが一番いいなと思っているんです。全国に7万6000のお寺があると言われていますが、年間2万人の自死の問題があるのに、どこもアクションを起こさない。いろいろ取り組んでいるかもしれないけれど、目に見えて表れていないというのは、社会機能としての役割は十分に果たしていないということです。

もし一つのお寺が一人でも救えたら、数はゼロになりますよ。私はそのビジョンを持って、自分が与えられた場所で、座禅の旗をたてて、その旗を目印に来ていただける方と一緒に座る。愛葉さんはまた違う旗を立てる。いろいろな違いが日本中にあったほうがいい。

愛葉 先ほどお話ししたとおり、私は他宗派の方とコミュニケーションをとるし、尊敬しています。その上で、私は「在家得度」という旗を立てることになった。「誰でもお坊さんになれる」ことを伝えているのは、仏教を自分事にしてほしいと思っているからで、それは誰でもできることだと思っているからです。

仏教がこれからできること

――仏教がもっと身近になるためにお寺ができることは何でしょうか?

倉島 私は檀家さんというコミュニティーの中でお寺に住ませていただいて、お寺の維持や管理と継承が大事なミッションです。それでも、もっとできることはあります。以前、全日本仏教青年会全国大会で、「仏教×SDGs」をテーマにしたシンポジウムを開催したことがあります。臨済宗の住職がコーディネーターで、女優の東ちづるさんをゲストに迎えて。

シンポジウムは大成功に終わったのですが、閉会後、東さんから「次回からは可能なら手話を入れたい、ネットでも配信したい」という要望をいただいたんです。それを聞いたとき、まだ届けたい人がいたなと思って。私は必然的に檀家さんとのコミュニケーションが多くなりますから、自分たちだけで自己完結するのではなく、いろいろな人とのご縁の中で、「お寺はこうしたほうがいい」「お坊さんはこうあってほしい」という声に耳を傾ける必要がありますね。

――愛葉さんは積極的に新しい層にアプローチされています。その場合、やはり「救い」、老病死に対する心の平安がキーワードになるのでしょうか。

愛葉 誰にでも必ず訪れるのが死ですよね。ネガティブなアプローチに感じられますが、ちょっとしたフックとして機能します。私の寿命は確率的に約9000日なんですが、それを毎日、スマートフォン上で見ているんですよ。寿命ですから、もちろん毎日減っていきます。

そうすると、小さいことに悩まなくても大丈夫と思えるんです。卑下するわけではないけど、現状にいったん満足できる。死を意識することが、心の平安――つまり今を生きる一つのきっかけとして機能するんです。

死はいつか必ず訪れるものだから、我々はずっと言い続けることが必要だと思っています。仏教の教えが届くのは今のタイミングではないかもしれないけど、言い続けていくことが大事なんです。最初は気にも留めないぐらい小さな印かもしれないけど、いつか気づいてくれるかもしれませんよね。

倉島 今を生きていない人が多いですよ。SNSで他人の悪口を言うことなど、その最たる証拠です。怒りやストレスをコントロールできなくて、バッシングで解消しようとする。今を生きている人にはそんな暇はないはずです。自分の存在意義は社会を正すことだ!とかんちがいしてしまう。

青山老師は他者への想像力について、こんなことを言っています。「集合写真を撮ったら、まず自分の顔を探しますよね。そして、自分の顔の映り方がよければ満足するし、目を閉じていたらちょっとイヤな気分になる。そうやって自分のことを愛するように、他者も自分のことを愛しているんだよ」と。

SNSはきたない言葉が多いですが、仏教に触れている人だったら、相手に共感できます。日本社会の中で悪口ばかり飛び交ってしまうというのは、やはり仏教の教えが浸透していない証拠です。冒頭で最近は仏教の種を植えられる機会が少ないと話しましたが、私たちがその役割を果たしていかなければなりません。

人口減少とともに檀家は減っていますが、それでも仏教に触れていない人たちがたくさんいます。それは私たちの努力不足とも言えます。こんなすばらしい教えによって、私たちは生かされているのに、多くの日本人は自分が無宗教だと思って生きている。そこに向けてどんなアクションをするのか、まだまだできることはたくさんあるはずです。

愛葉 そのとおりだと思います。仏教という道はいろいろあります。それは一部の人のものではありません。誰でも歩める――それを伝えていきたいですね。

仏陀倶楽部では、 こうした日々の迷いや立ち止まりを、

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監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

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