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『現在を生きる 仏教入門』 を読み 「縁起の道理」 で生かされている私

古田和宏師のこの 『現在を生きる一仏教入門』 は、 「仏教入門」 と書名にあるように、 仏教の教えの総体を簡明にご教示いただいた。 その道の人には承知のことでありましょうが、 一から眼を開いていただいた。 仏教でいう『行』」や 『空』 を、 生活用語の 「おこない、 おこなうこと」、 「空しい、 空っぽ」 ではよく理解できなかったのであるが、 『行』 は 「あらゆる現象」、 『空』 は 「有るとか無いとかに束縛されない、 こだわらないということ」 と教えていただき、随分と迷いが吹っ切れた思いである。
多くのことをお教えいただいたが、 なかでも、 お釈迦様がお説きになった仏教の教えの根本は、 『因縁の道理』 だということ、 「四法印」、 「四諦」 等仏教の大事な教え、理の根源にこの 『因縁の道理』 があることを、私なりに理解させていただいた。 この 『因縁の道理』 について述べたい。

釈尊は、さまざまな機会に、 さまざまな人びとに、それぞれにぴったりと合う教えをお説きになったのでした。 それらに通底している教えは、 「縁起」 という道理であったとされています。
すべての物事は、 「因」 と 「縁」 との関係性によって成り立ち、 同時に、すべての物事は、必ず他の物事の 「因」 ともなり、 また 「縁」 ともなるということ、これが、 「因縁生起」 つまり 「縁起」という理法なのです。
「原因」 が同じでも、 「条件」 (緑) が異なれば、 まるで違った 「結果」が生じます。 例えば、 草花の種を蒔くと花が咲きます。 種は「原因」です。 そして花は 「結果」 です。 しかし、 どこに種を蒔くかによって、 「生起」 する 「結果」 は違ってしまいます。

・一輪の花が咲いている
というのは、とても不思議な縁によることと言わなければなりません。
「因縁生起」 という当たり前の道理に従おうとせず、 道理を敬おうとしないのは、道理対する無知によると釈尊は教えておられます。 この根源的な無知は、 「無明」 と呼ばれています。 「無明」によって 「我執」 が生じます。 その 「我執」 がはたらくために、 自分はさらに 「道理」に背くことになり、 「道理」 に背き続けるために、 自分で自分を苦悩に陥れるのだと 釈尊は教えられます。 その誤りを正すために 「因縁生起」ということを説かれたのです。
(P. 32-39)

「縁起」 とか 「因縁」 という言葉は、 私たちの周りで、日常的に使われる言葉であり、その意味を正しく知らなくとも、 その言葉そのものは、 子どもの頃から知っていた。 どちらかと言えば、 自分を追い詰め、 規制する、 自分ではどうにもならない、目に見えない 「恐ろしいもの」 のように感じてきていた。
この本を読ませていただき、 私のそうした思いは、 すべては正しくはないとはいえ、私にとって極めて大事な、 私の生きることのすべてにかかわっている根源的な「理」(ことわり) であることをお教えいただいた。 その意味で、 自分の意志ではいかんともしがたく、且つ自分の意識しないところで自分の在りようを決する摂理に、 「恐ろしいもの」 「大変なもの」 と子ども心に感じたのはあながち全部が間違いではなかったのではの思いがある。

古田氏は、私たちの暮らしに、 ごく普通にある花や食べること、悲しみや怒りを 「縁起の道理」でわかりやすく解き明かされ、 私なりに理解させていただいた。 私が今ここにあること、「私」という自己認識も含め、すべてが他者、それは、時に人であり自然であり、文化であり歴史であり、かかる私以外のものとの 「縁」 即ち、関わりにより 「在る」のであり、 その縁 (関わり) が異なれば、また違った 「在る」 になるのであるとお教えいただいた。 「私」は、 私ひとり単独で存在しているのでは全くなく、むしろ私以外の無数の存在するものによって 「在る」のであり、 このことを知り心に落とせば、 「我執」 の己を知り、これまでとは違った生き方が生まれるのかと思う。

今ひとつ、 「因縁の道理」 にかかわって、 これまでほとんど私の意識になかったことで、衝撃を受けたことがある。 それは、他者に対し私自身が「縁」となるということである。 例えば、 妻や我が子との家族関係に於いても、知人友人関係に於いても、他者にとっては、わたしが 「縁」 となっているということである。これまで私と他者との関係にあって、他者にとって不利益、不具合、困難、苦痛が生じたとき、 「お前が阿呆やから」 「わしの言うこときかんから」と迫り見捨てるか、 「かわいそうになあ」 「気落さんとしっかりな」 「何でも言い、 力貸すで」 と偽善者ぶったことがどれほどあったことか。 本当は、私が他者の「苦」 の「縁」 であったにもかかわらずである。 このような私であるから、当然のこととして、私にとって不利益なことが生ずれば、 すべて 「縁者」 としての他者の責任として、 厳しく糾弾し罵倒してきたのである。
お釈迦さまは、かかる私を 「因縁生起の道理」 に対する「無知」と教えられ、この無知を 「無明」 と呼ばれ、 「無明」 によって、 私は 「我執」 の虜としての一生を送るのだと説かれたのだと理解した。

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