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人生とは何か

人生も社会も仏教も、分からないことばかりである。
人生そのものも、植物のように受動的で素朴なものであれば、話は単純だったかもしれないが、現代の日本社会は、そのような素朴な行き方というものを認めていない。
日本社会は人に対して「労働」を義務としますし、社会保証に対する掛け金からは、労働が出来ない事情がある場合以外は免除されるものでもない。

私は、何も働くのが嫌と言うわけではないが、たとえば情熱を注ぎ世界一美味し大根を作ったとしても、それは労働とはみなされず、その大根を売るか、マニュアルを販売するなどして現金化して初めて労働とみなされるのであり、毎月の健康保険料として大根30本を市役所に持っていったとしても、市役所の窓口では対応もできないであろう。
かといって役所が大根を売ってくれるわけでもないのだか、私自身にローカルな信用があれば、周りの農家と物々交換を行い、健康を維持する糧を得る可能性は十分にあるわけであるだが、現代の日本国においては、その様な生き方は認められていない。
自身の身一つ、農地一つ、家屋一つでも自分の意思だけで所有できるものなど、一つも存在していないのである。
そういう意味で日本のルールに則れば、宗教的実践、特に原始仏教の実践は社会ルールの外側にあると言える。

何も持たない只、今生きているいる事実だけがあり、それ自体も空でありその意味を求めるのも頓着であり執着なのか、私は無知ゆえにその程度のことすら判断ができない。

仏の教えに関しても、阿弥陀仏の教えというのが一体誰が聴き出して、言い出したのかも現状では皆目見当がつかないのである。

否、それを知ろうとすることも煩悩なのかどうなのか、仏教とは知識教養だけでよいのだろうかという疑問もある。
いや、何かだけという極端な考えや生き方は、中道から外れているのだろう。

幸福に関しても、今まさに何の不自由もない状態は幸福以外の何ものでもないのだが、それでも、脳神経の高揚する何かを求め続けているこのような状態は、私の理屈で言えば麻薬中毒の禁断症状と大差がない。

ゆえに幸せ自体もわからない幸せとは、どんな状態なのかと日々想像してしまうのは、「今」を軽視している「今」から離れているのだと思われる。
まさに迷いしかないのが私の今である。

だが、無明の闇の中であれば、蝋燭の灯り一本でも進むべき道が見えるのかもしれない。
あるいは昼行灯で迷っているのか、私自身が蝋燭になりたいという自己顕示欲があるのか、何にしても、今、私には開いて見える門戸がこちらしか見当たらない。
いや、キリスト教もイスラム教も入信すること自体は可能ではあるが、私の知りたいことがそこにある気が今はしない。

私の、知りたいと思う煩悩すら切り離すことができるのであれば、迷いから抜け出すことができるのか。

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