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お念仏の里に生きて② 母のお念仏-仄かな灯り

大正五年生まれ、 二歳の春父病死、父の記憶はない。
母と二歳上の兄の三人の百姓家、 田んぼの畦で育ったと。
三歳の頃から田畑に家事に母を手助け、 十三歳で列見の機織り工女に、 十六歳徳島へ女中奉公、 二十歳京都へ女中奉公、二十八歳村の大工の次男に嫁ぐ。田畑なし、 母のいない貧家、 十畳一間敷きの物置小屋が新居だった。

その家で私は、 二歳上の姉に次いで昭和十九年十一月に生まれた。
村の中でも、財産らしきもののほとんどない貧しさは際立っていたが、姉も私も貧しいと思うことも、 大きな家屋敷を羨むこともなかった。
ここに、どんなときにも父と母、姉と私の我が家があった。

一文不知の無学の母だったが、 私が人として生きる道、智慧をさずけてくれたのは母だった。
あれは三歳の秋の夕餉、ご飯を飯台からこぼした。
ああ汚い! 捨てよう!そのとき、弘法さんはね、 うんこの上に落ちたご飯を舌でペロッと、 母。
小学校の帰り道、 他所のものを黙って、桑の実・イチジク スイカ・トマト・栗・柿・ ニッキの木の皮や根。 晩ご飯のとき母が珍しく話を、 ··· ある村に貧しい親子が、 父ちゃん! スイカが食べたい! 坊が、 毎晩毎晩何度も何度も、畑はないお金もない、 ある晩、 親子で他所の畑へ、 大きなスイカに手をかけ、坊よ 誰も見てやあれへんか! うん! 誰も見てやあれんで! けど! お月さんが見てやある! ・・・・・・ スイカにかけていた手を離し、明日うまいもんこうてきたるでな! 肩車で野道を還る二人、 お月さんがうれしそうに照らしてやあたと。

六歳の頃、 正信偈は諳んじていた。
母の膝で朝夕事に、 生まれて最初におぼえた”うた”かも。
“お経さんは読ませてもらうんや、キョロキョロしたらあかん! 漢字ばかりの赤本のページを繰り、指でなぞってくれた母。
畑の母 鍬打つ前に手を合わせ・・・なまんだー! その日の畑仕事が終われば、手ぬぐいを脱ぎ、 畑に・・・なまんだー! お寺の梵鐘の音に手を合わせ、 なまんだー。
お内仏で小さな身体丸め、 なまんだー! 寝床に入って、 なまんだー!死ぬのは怖いなあ! とつぶやいた私に、うちはええお話聞かせてもろてる!と穏やかな顔で母。

今思えば、 その時母には阿弥陀さまの清らかな世界があったのだ。

自分のことしか知らない、 自分のことだけで精一杯の私を、 母は問答無用に抱きかかえ包み込み、おまえはおまえの足で歩き続けるほかないんだと、いつか、お前を支え、 どんなときでもどこででも、 見守り続けてくださっているお方がおられることを、どうか知ってくれよ、と岸壁にたたずみ、波に翻弄される愛し子の小舟を、ハラハラしつつ願い続けてくれていたのだ。

平成五年、母七十八歳の秋、
財布どこやろ、 知らんか! 離れから何度も何度も、余りのことに腹を立て閉めてしまった扉の向こうから、 開けてえなあ! 開けてえなあ! あの母の声が、 今も耳から離れない。
ほとんど何も分からなくなった母とお風呂に、 ・・・・・ 温といなあ 極楽やなあ・・・・・・おまん、 誰 !・・・・・・こうぞうやな、 息子のこうぞう! ・・・遠い日、 おっぱいにしゃぶりついた痩せ細った母の胸を抱きしめ、 私は泣いた。

******
医師からもう一両日と、その時の準備を始めた夜半、 母の伏せている床の横だった。
準備はできたなあ! 妻に、これが母への私の最後の辞になった。
なんと薄情であったか、 翌午前二時、 母の寝息は止んだ。
平成十年十月二十一日八十三歳、 閑かに生涯を閉じた。
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小学校のときだった。
朝、 学校へ家を出るとき、 母は私の前に立ち頭のてっぺんから足のつま先まで、 汚れていれば前掛けに唾をつけ拭き取り、がんばってきいや! と。
いま、家の下駄箱横に鏡が。
鏡の前に立ち、 姿形を、 心を、 よしっ! と。 鏡は母、母が鏡、鏡に自分を写し、母に自分を写す。 鏡も母も仏、貪り怒り愚か、 深い深い闇の日々、 無明の日々、 今日の日まで私を論し、今も照らし続ける、 遠くの山のあの仄かな灯り、母を憶う。

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