書いた人:レーン由香
毎日の食事はあまりに身近であるため、その背景にある多くの命や人の営みを見落としがちです。本レポートでは、農家で育った経験や食への関心を手がかりに、仏教における「食べること」の意味を見つめます。小欲知足の考え方や、命と命を支える縁への感謝を通して、日々の「いただきます」と「ごちそうさま」をあらためて考えます。
農家で育って教わったこと
私の実家は、ずっと農業を営んでいました。米、野菜、果物など、さまざまなものを作っていたと思います。近所には親の知人の牛舎があり、藁と交換する形だったのか、記憶はあいまいですが、牛肉を分けていただいたこともあったように思います。実家にいた頃は新鮮な食べ物に恵まれていました。
手間暇をかけて大切に育てた野菜やお米を大事に食べること、お箸の持ち方、腹八分目がよいことなどを、曽祖母が私に教えてくれました。人は生きるために食べなければなりません。しかし、世の中には十分に食べられない人もたくさんいます。
また、考え方によってベジタリアンやヴィーガンを選ぶ人、アレルギーによって食べられるものが制限されている人もいます。食に関しては、本当に人それぞれだと思います。
私は食べ歩きが趣味で、料理も好きなので、食事についてはいろいろと考えてしまいます。今回は「食べること」と仏教について学んでみました。
仏教における「食べること」
仏教における「食べること」は単なる栄養補給ではなく、「小欲知足」の精神で自らの煩悩を見つめ、多くの命の犠牲や営みに感謝し、仏の教えを味わうための大切な実践に位置づけられているそうです。
浄土真宗では、肉を食べることは禁止されていません。
ベジタリアンの方にもさまざまな考え方があるため、異論を唱えるつもりはありません。ただ、農家育ちの私が思うのは、私たちが食べている動物や野菜、果物などのほとんどは、人が水をやり、餌や肥料を与え、毎日世話をしながら、手間暇をかけて育てているということです。
野菜も動物と同じように世話をしなければ、腐ったり枯れたりします。私は野菜も動物と同じく、命あるものだと思っています。
多くの縁に生かされている
私たちは、多くの犠牲や恵み、人々の営みという「縁」に生かされています。目の前の食事は、ただそこにあるのではありません。たくさんの人の手がかかり、今、私たちが食べることができています。そのことに感謝し、心を込めて「いただきます」「ごちそうさま」と言うことが大切なのだと、あらためて思いました。
食べ歩きを通して海外の食文化に触れると、驚きや発見があります。初めて食べたものがおいしいと、感動もします。「食べること」は身体のためだけではありません。「小欲知足」の精神を忘れず、食べすぎて「苦」を感じるのではなく、自分に必要な量をおいしく食べて幸せを感じること。それは心の栄養にもなり、穏やかな毎日を送ることにつながるような気がします。





















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
コラム一覧 → こちら