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周利槃特から学ぶ③ 「自分らしく」と「ありのまま」は何が違うのか

周利槃特から学ぶ③ 「自分らしく」と「ありのまま」は何が違うのか

書いた人:釋 彰心

周利槃特の逸話には、悟りや修行だけでなく、自分をどう受け止めるかという問いも含まれています。本レポートでは、物忘れが多く周囲から軽んじられていた周利槃特の姿を通して、「自分らしくあること」と「ありのままであること」の違いを考えていきます。日常でも混同されやすい二つの言葉を、仏教的な視点から見直します。

周利槃特の嘆きから始まること

周利槃特(チューダパンタカ)は、お釈迦様の高弟の一人であり、「塵を払わん、垢を除かん」と唱えながら掃き掃除を続け、悟りの本質を知った人物です。また、レレレのおじさんのモデルともいわれています。

私は周利槃特さんの話が大好きで、何度も反芻しています。そこから私なりに学んだことがあり、今回はその第三弾です。

周利槃特さんは、のちに高弟の一人になりますが、物忘れが激しく、一つの偈すら覚えることができず、ほかのお弟子さんから馬鹿にされる日々でした。そんな中、周利槃特さんはお釈迦様に嘆きます。

その嘆きを聞いたお釈迦様が、周利槃特さんにほうきを渡し、「塵を払わん、垢を除かん」と言いながら掃き掃除をすることを勧めたところから、この話は始まります。

「ありのまま」と「自分らしく」は違う

ここから私は、新たな気づきを得ました。それは、「ありのまま」と「自分らしく」の違いです。

よく人生の成功法則として、「自分らしく」という言葉が持ち出されます。私のフィールドである障害福祉の分野では、特によく聞かれます。そして、「ありのまま」と「自分らしく」が混同されていることもしばしばあります。

ありのままと自分らしくは、全く別物です。ありのままとは、そのもの丸ごとを指し、仏教でいえば真理です。自分にとって都合の良いものだけでなく、不都合なものまで丸ごと知り、受け入れることが、ありのままで在るということです。

一方、自分らしくとは、自己中心性の高い状態です。自分らしくあるということは、ともすると自己中心性を強める状態になりうると、私は感じています。

ほうきが示していたもの

では、周利槃特さんがお釈迦様に自身の無価値感を嘆いた際、お釈迦様はどうしたでしょうか。お釈迦様は、周利槃特さんに「自分らしくありなさい」とは助言していないのです。

物忘れが激しく、一つの偈も覚えられず、周囲から馬鹿にされている周利槃特さんに、お釈迦様は「そのまま自分らしくありなさい」とは言わなかったのです。

もし周利槃特さんが自分らしくあり続けたら、どうなっていたでしょうか。周囲から何を言われても自分らしくあればいいと開き直り、自己中心性が高まり、どんどん孤独になっていったかもしれません。

周利槃特さんだけでなく、私たちも社会の一員です。その中で求められるのは、ありのままを知り、受け止め、そのうえでどう在るかだと思うのです。それをお釈迦様は、周利槃特さんがわかりやすく実践できるように、ほうきという形で手渡したのだと理解できます。

こうして私は、お釈迦様と周利槃特さんから、「自分らしく」という言葉に含まれる誤解と、ありのままを知ることの重要性を学ぶことができました。

仏陀倶楽部では、 こうした日々の迷いや立ち止まりを、

一人で抱えずに言葉にする場があります。

監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

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