書いた人:釈 明淳
ゴミ屋敷を、単なるだらしなさや怠けとして片付けず、その奥にある自己嫌悪や苦しみに目を向けたレポートです。片付けられない部屋を「心の乱れ」として見ながらも、人を責めるのではなく、まず小さく現実へ戻ることの大切さを語ります。掃除や片付けを、日々の修行として捉え直す視点が印象に残ります。
ゴミ屋敷は、苦しんでいる人の姿です
人間というものは、妙な生き物です。お腹が空けばご飯を食べ、眠ければ寝ればよいものを、余計な理屈をこしらえて、自分で自分の首を締めてしまいます。坊主を長くやっていると、そういう人を山ほど見てきました。
世間では、ゴミ屋敷の住人を見ると、「だらしない」「怠け者だ」「頭がおかしい」などと簡単に言います。ですが、私に言わせれば、あれは苦しんでいる人の姿です。しかも、かなり真面目に苦しんでいます。
本当にどうでもいいと思っている人は、案外ケロッとしているものです。
自己嫌悪の奥にあるもの
自己嫌悪というのは、元をたどれば慢心です。「自分はもっと立派であるべきだ」「もっと才能があるはずだ」「もっと認められるべきだ」。そういう思い上がりがあるから、現実の自分を見て苦しくなります。
人間など、元来それほど大したものではありません。ところが近頃は、テレビやSNSで、みんなが自分を英雄か何かだと思いたがります。朝から晩まで成功者を見せられて、「お前も輝け」「夢を叶えろ」「特別になれ」と言われ続けます。それでは、気もおかしくなります。
昔の人間は、自分が凡夫だということを知っていました。凡夫というのは、煩悩まみれの普通の人間という意味です。腹も立ちます。色気も出ます。怠けもします。見栄も張ります。それが人間です。
ところが、自分だけは清らかで、立派で、強くなければならないと思い込んでしまいます。だから現実との落差で、自分を憎み始めます。
ゴミ屋敷というのは、その自己嫌悪が物になって積もった姿です。部屋というのは、心の映し鏡です。心が乱れていると、部屋も乱れます。何を捨てればいいか分からなくなるのは、人生そのものが分からなくなっているからです。
掃除は現実に戻るための行いです
坊主の世界では、掃除を大切にします。あれは衛生のためだけではありません。箒を持って庭を掃くと、余計な妄想が少し静かになります。床を拭きます。茶碗を洗います。ゴミを捨てます。それだけで、人間は少し現実に戻れます。
悟りなどというものは、大層な顔をして山の上にあるわけではありません。汚れた灰皿を片付けます。脱ぎっぱなしのシャツを畳みます。それだけでも、十分に修行になります。
畳一枚分から整えればよいのです
それにしても、人間というのは面白いものです。他人には、「そんなに気にしなくていい」と言うくせに、自分には鬼のように厳しい。自分を裁きすぎてしまいます。
ですが、自分を責めて立派になった人を、私はあまり見たことがありません。少し肩の力を抜いた人のほうが、かえって強いものです。「自分など大したものではない」と腹をくくった人は、案外しぶとい。執着が減るからです。
仏教というのは、何も仙人になる教えではありません。「そんなに自分を大層なものと思わなくていい」という教えです。偉く見せようとするから苦しくなります。立派になろうとするから疲れます。
人間は、最後はご飯を食べて、糞をして、寝ます。まずはそれで十分です。そこから少しずつ整えればよいのです。畳一枚分でも片付けば、上出来です。
仏様というのは、案外そういう小さなことを見ているのです。


















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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