多田幸寺のご本尊は、 薬師如来さまです。
『近江坂田郡志』 には、「明治三十八年四月国賓の指定受く」 とあり、昭和三十八年には国の重要文化財に指定されています。 『多田幸寺由緒聞書』には、 十世紀末に創建された多田幸寺に、 「伝教大師一タビ禮ヲ為シテ彫刻シタマエル所ナレバナリ、 地上大師開基ノ故ニ此ノ像ヲ安置シテ」とあります。
村の人にとって、 仏さまを美術品や文化財としてみる、考えるなど全くありません。人びとの信仰の中に生きておられる仏さまなのです。
村の人は誰もが、大人も子どもも、 山寺の「おやくしさん」、 「おやくっさん」とよびます。 村のほとんどは、 浄土真宗大雲寺の門徒で、 多田幸寺の門徒は一戸もありません。 数戸の他所門徒がありますが、 村人が信徒として多田幸寺と歩んで参ったのです。
村の祖先が、 どんなに慕い、尊び、護り、信仰されてきたかを思います。明治四十三年(1910年) の 『寺蹟調査票』 に、 信長の兵火で灰燼に帰しておよそ九十年後の明暦二年(1656年)、 「蓮池ヨリ毎夜光明ヲ放ツ、 里人等相謀リテ発掘セシニ、 薬師如来ノ木像ヲ得タリ、 因テ小舎ヲ建立シ」 とあります。
信長の兵火が迫ってきた時、お薬師さまだけはと蓮池の底に沈め護ったのだと思います。 蓮池は今はありませんが、 昭和三十年代まで、 多田幸寺境内の南にありました。
母方の祖母からこんな話を聞いています。 江戸時代の終わりのころ、 薬師如来が盗難に遭われ、 祖母の祖父の夢枕に七尾山にいるから迎えに来ておくれと告げられ、 翌朝、 多田幸寺に駆けつけるとご本尊はおられず、驚いてお告げのところに行かれると、 お告げどおりの地におられ、無事お帰りいただいたという言い伝えです。
仏にも宿業があるとすれば、 多田幸寺の薬師如来さまも、 幾たびかの宿業を村人と共に超えてこられたのだと思います。 このような伝えがあるほどに、 多田幸寺は村人の篤い信仰心を育んできたのです。 多田幸寺に幾度かおいでになった瀬戸内寂聴さんのお言葉をお借りすれば、 村人は幾世代にもわたり、 「凡夫の体や心の悩み、痛みのすべてを一気に吸い上げてくださる」(『寂聴ほとけ径一私の好きな寺』)ことを、直感的に感じ尊び慕ってきたのだと思います。
平成二十一年十月、五十年に一度のご開帳が勤められました。 ご法要前日、ご本尊薬師如来が収蔵庫から本堂にお移りになる手伝いをさせていただきました。 お薬師さまの肩とお尻に手を触れさせていただいたとき、 生きている人のような柔らかさを感じたのです。 不遜にもそのとき突然、 十年前に逝った認知症の母をお風呂へと抱き上げたときの、 母の肌の柔らかなぬくもりが蘇ったのです。 その夜私は、 本堂の一隅で夜の明けるまで、 薬師如来さまとご一緒させていただき、母を偲びました。
親鸞聖人は、 お念仏の行者はお浄土へ往き、仏となって再び還ってくるのだと説かれます。 大雲寺門徒の真宗信徒であり、 多田幸寺のお薬師さまにもお参りを欠かさなかったお念仏に生きた母が、 多田幸寺ご開帳の仏縁をいただいた私に、仏の教えに生きるのだ、お念仏の暮らしをと論しに還ってきたに違いないと、 あの日から十余年過ぎた今も思っています。