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仏教を憂う、そして。

仏陀倶楽部代表の愛葉宣明さんの著書、「人生を変えるのに修行はいらない」を読んだ上で、以下の問いに答えていきたいと思います。

・書籍の中の「どの小節・文言」に惹かれたり、感じることがあったか?
・また、それはなぜなのか?
・そして、今この時に得度へ一歩踏み出したきっかけはなぜなのか?

私自身、仏教を熱心に学び始めたのはここ最近のことです。以前のレポートでも書いたように、一休さんが好きで、親戚の本家が浄土真宗で『正信偈』をよく読んでいて、曹洞宗の座禅も行い、みうらじゅんを敬愛するといった様に、ご仏縁には大変恵まれていたと今では振り返り、感謝をしています。しかしどうして熱心に仏教を学ぶようになったかはまだ明らかにしていませんでした。そして今、仏陀倶楽部代表の愛葉宣明さんの著書である「人生を変えるのに修行はいらない」を読ませていただき、その理由が明らかになったような気が致しました。

既に熱心に勉強を始めており、しかも得度申請をした後から愛葉宣明さんの著書と出会い、読んでその勉強の動機が明らかになるとは自分でもおかしなことを書いていると思います。しかしそれこそがまさに私が仏教を学ぶ基礎的な動機なのです。

仏教の学びは聴聞に極まると教えられます。お釈迦様の教えを聴いたものがそれをお経として残し、そしてそのお経からまた次の人が聴聞され、そしてまた次の人が聴聞され、面々と繰り返され、2500年の時を経て今日私のもとまで浄土真宗として届きました。これが喜びと知れたのは親鸞聖人の正信偈でもあるように七高僧がいらっしゃればこそのことです。今まさに私は仏教、浄土真宗によって喜びと救いに触れることができています。

そして今、愛葉宣明さんの著書を読むという形で聴聞することができ、改めて人の苦しみや今まさに生きる不思議さ本当の幸せがどういうものであるかを“言語化”することができました。

人が生きるという事はどういうことか、なぜこんなに苦しいのか、なぜ同じ間違いことを繰り返してしまうのか、なぜ人は、なぜなぜなぜ…私は現在農家ではありますが、職業人生の殆どを対人援助というものに費やしてきました。その切り口の柱が“相談”です。かっこよく言ってしまえば、相談で人の人生を救う一助となるため相談を受け続けてきました。

しかし現在に至っても、満足に相談をしに来た人を救えたという実感はありません。それはなぜか。苦しみや不安、恐怖の言語化は数多聴いてきましたが、それを救う言語化ができないからです。今ある世間や社会や仕組みを解説することはできます。しかし苦しみや不安、恐怖から救われる言葉を矛盾なく紡ぐことこそ困難なことはありません。

心理学者のアドラーの提唱した個人心理学では、人の生きる上での問題の多くは関係性によるものであるといわれます。それに対応した解決のヒントも学べます。しかし万人にわかるように言語化することは大変に困難であることを嫌というほど知らされました。現実現在が諒かになるばかりで、救うことができない。このジレンマで漫然とした日々を過ごしていた時に、親鸞聖人の教えに触れました。するとそこにはお釈迦様の教えがあり、お釈迦様の教えのは人の生きるとはなんたるやがまことに美しく、わかりやすく、秀逸に言語化されていることに驚きました。既に人の生きるにまつわる答えは2500年前にあったのです。

愛葉宣明さんは仏教への出会いと、人の生きるにまつわることは既に仏教に答えがあることを書籍を通じ、第1章と第2章で諒かにされました。その結果、「人生を変えるのに修行はいらない」と真実を教えられました。この書籍を聴聞したからこそ、この本のタイトルが悩み多き現実現在に明かりをともします。これは曹洞宗とも同じ見解でもありますが、生きる営み全てが修行であるということです。更にお釈迦様は『死』というものを徹底的に見据えて、人の生きるにまつわる問に全て言語化されています。だからこそ特別な修行ではなく、今現在この時を生きるということを智慧と慈悲でお与えくださいます。これを親鸞聖人、相葉宣明さんが私まで届けてくださいました。これこそが喜びであり、この書籍に触れた際の問の答えです。

また得度についての動機ですが、相談という切り口で対人援助に携わる際に、人の救いとなるための言語化を得たかった。またそれを誰にも臆することなく使いたいと言うのが得度への動機ですが、この著書はそこにも言葉をくれました。

「仏教を「自分ごと」にしてみよう!」

仏教を頼りにし、合理的に用いるために「自分ごと」にしてくださいと愛葉宣明さんは背中を押してくださいました。私は仏教を頼り合理的に使うために自分ごととして得度の道を歩むんだと、気付きとともに決意も新たにすることができました。
本当にありがとうございます。

最後に著書全体、とくに曹洞宗の倉本さんとの対談でもありましたが、私自身仏教に宗派があることにまだまだ合点がいきません。特に仏教のイメージが偏ったり、争いが起きるなんてのはまったくもって信じられません。代表的なところで言えば、お釈迦様は偶像崇拝を禁じられています。お釈迦様ご自身でも自分を模したものを作ることを禁止されています。

しかしお釈迦様が入滅された後数百年後には仏像として作られてしまいました。このようにして2500年という長い年月は、お釈迦様の教えを拡大したり縮小するには十分なものでした。また、近年においてイメージの偏りの原因はメディアにあります。ましてや仏教を用いて人の苦しみを産まんとする方もいる始末。元はお釈迦様お一人から生まれた救いの教えです。

対談で宗派を商店街に例えられたのは秀逸でした。いま現時点で宗派があることは仕方のないことです。しかし仏教商店街にいる各お店は決して争うことなく、お釈迦様の智慧と慈悲もと垣根なくすべての人の救いとなる開かれた商店街でありたいというお話は、視野が開ける思いでした。同時に、仏教を学び得度に向けた、いや得度後も追い求める、私自身の新たな目標となりました。

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