「あなたは本当に人を”愛した”ことがありますか?」と改めて問われると、自信がなくなる、って感覚ありますよね。私が愛だと思っていたのは真の愛ではなかったかも知れない」と。
それと同様に、「あなたは本当に人を”許した”ことがありますか?」と問われたできごとの話です。私がやってきたのは本当の許しではなかったのかもしれないと、正面から突きつけられたのです。
最近、あった出来事です。
昔の同僚が、5年ぶりに酔っぱらって夜中、電話を掛けて来て、失恋話を言いたいだけ放り投げてきました。40歳過ぎの人間の行動それ自体もとして色々ですが、ついでに「高ちゃんの商品を売りたいから、商談したい」との話。それで、日程を決めて、はるばる高槻から明石まで朝、電車でゆらゆら揺れて向かっていると、ちょうど着く直前に電話が。
「娘が熱だからキャンセルしたい」と。
いやいやいや、絶対にもっと早く電話できたよね~。そして、娘も言い訳に使っただけだのような直感がありました。
夜中に電話して逢いたいって言っておきながら、キャンセルのビジネスマナーとしても最悪で、相手を軽んじる態度に、「あ~もうこの人とは、今世では逢わないかもしれない」とかなり腹が立ち、呆れに近い感情が湧きました。
そんなもやもやを抱えたその日の午後、一つのことを思い出しました。実はその少し前に、「高橋家家訓十か条」というのを作っていたのです。子供のためというのがメイン目的ですが、トイレのドアに貼って、みんなが見れるようにしていました。
その項目がふと頭によぎったのです。
第八条「自分もたくさん許されて生きています。だから人の失敗も許してあげましょう」。自分で書いたのですが(笑)
これを思い出したとき、ぶわ~っと色々な思考が押し寄せて来ました。もちろん自分が出来ている背中を見せないと、子供の手本にはならないとも思いました。そして、「不完全で未熟な自分は、一体、いままでの行いで、どれだけ人に迷惑を掛けて来て、どれだけ許されて来たんだろう」と考えてしまいました。
大人になると、「許せずに、人知れず離れる人」、「気にしてないふりをして許してくれている人」色々な人がいると思いますが、面と向かって、「許す」って言われるようなことはほとんどありません。だからこそ、色々な人が、私の至らない沢山のことを許してくれていたんじゃないかという思いがあふれ、涙が出そうになりました。
すべては「ごめんなさい」と「ありがとう」。この二つの言葉に集約されました。自分がされてきたことは、世間にお返ししなければいけない、もしかしたら、私が許せないと思っている当人にだって、許してもらっていたことがあったかもしれません。
最終、私は、「許せない」という感情を持ったまま、「許す」ことにしました。許すっていうと、上から目線な感じもしますが、決してそういう意味合いではありません。なかったことにする感じです。
本人が悪い訳ではなく、みんな未熟なだけだったと理解する感覚です。人は誰もが失敗するのです。だからこの機会に、その人自身とその行為、そして今まで許しきれなかった人、すべてを許すことにしました。
すると、どうでしょう。心が少し軽くなった気がしました。日々思い出す訳ではないですが、許していない人、許していない行為は、ずっと腹の底に溜まって、腐り続けていたのだと思います。それは許しが入って、水に流されるまで、ずっとそこで腐り続けるのです。
許せないということは、自分の感情や体にとってもすごいマイナスです。許しとは、自分のためにすることだと気づきました。そこから派生して、私は同じような理屈で、自分にも許していないことがあるのではないかと思いました。それもこの際、一切合切、全部許そうと試みました。
「出来ていると思った瞬間が退化の始まり」みたいな言葉がありますが、本当にこの通りで、私はいつも、性懲りもなく同じ罠にはまっている気がします。私は自分が「許し」という行為を出来ている人間だと思っていました。だからこそ、「許し」というテーマにしっかりと正面から向き合ったことはありません。
しかし、私がしてきた許しは本当の許しではなかったのだと思います。今までしていたのは、なんとなく時間の経過と共に、感情も、その出来事もなし崩し的に薄れていって、許すという行為ではなく、忘れるに近い行為。
本当の許しとは、「許せない」という感情を抱えたまま、能動的に「それでも、許す」という腹にぐっとくる決断をすることなのじゃないかと思いました。
子供を見ていると、何かあったとしても、こじらせて許さないとかならずに、すぐに一緒に遊び出します。子供の方が何枚も上手(うわて)に見えます。
また一つありがたいことに成長できた気がします。私に気付かせるための役割を担ってくれた、配役の方々、神々に感謝です。