書いた人:仏陀倶楽部 会員
通勤途中に始めたゴミ拾い。人目が気になった頃を経て、やがて淡々と続けられるようになる中で、落ちている場所の傾向や、同じように拾う人の存在が見えてきました。捨てる側への憤りや、拾う自分への満足感を見つめ直しながら、ゴミ拾いを通して感じた関係性と中道への気づきを振り返ります。
通勤路で始めたゴミ拾い
数年前から、週に数回、通勤の道すがらゴミ拾いをしています。
ゴミを拾うためのトングとレジ袋を持ち、道端に落ちているものを拾っています。散乱するゴミの多くはタバコの吸い殻で、それに空き缶や弁当の容器が続きます。
始めた当初は人目が気になり、羞恥の念を拭えませんでした。そのため、人通りがまばらな早朝の時間を選んでいましたが、数カ月後には淡々と手を動かせるようになりました。
同じ場所、同じように拾う人
この活動を通じて、いくつかの気づきがありました。まず、ゴミが落ちている場所は、ほぼ同じだということです。まさに「掃きだめ」という言葉の通りです。
一方で、まれに登校中の小学生や地域のご高齢の方が、同じようにゴミを拾っている姿を目にすることがあります。そのときは、同志を見つけたようなうれしい気持ちになります。
一キロほどの道のりで拾うゴミの量は日によって異なりますが、平均すればレジ袋一つ分ほどです。道中、目を凝らしてゴミを見つけ、それを袋に収める瞬間には、ある種の満足感があります。逆に、ゴミが一つも見当たらないときは、どこか物足りなさを覚えるから不思議です。
捨てる側と拾う側を見つめ直す
始めた当初は、ゴミを平然と捨てる人々の心の貧しさに憤りを感じていました。その反面、拾う自分に「良いことをしている」という気持ちがあったのも事実です。
「捨てる神あれば拾う神あり」というように、自分は拾う側でいたかったのです。
ところが、ある日ふと気づきました。
「捨てる神、あるいは仏」という存在があるからこそ、「拾う神、あるいは仏」もまた存在し得るのだ、と。
互いが互いを映し出す鏡のように成り立っている世界。そこには、単純な善悪だけでは捉えきれないものがあり、中道の精神性を感じました。皆さんも、身近な場所でゴミ拾いを実践してみませんか。心と体の健康のためにもおすすめです。






















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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