書いた人:安藤弘
このレポートでは、友人から受け取った言葉をきっかけに、「動じない心」とは何かを見つめ直しています。年齢や体力の変化によって反応の仕方が変わること、怒りや悲しみに飲み込まれずにいること、そして相手や結果に執着せず関わること。日常の対人関係の中で、心をどのように整えていくのかを考える内容です。
反応し続けることから離れていく
先日、友人からいただいた言葉を通して、「動じない心」とは何か、そして自分自身の在り方について、深く考える機会を得ました。
まず印象に残ったのは、人は体力や気力の変化とともに、物事への関わり方が自然と変わっていくという点です。これまで強く反応していた出来事に対して、怒りや悲しみ、対立といった感情を維持する力が弱まることで、結果として「達観」に近い状態へと移行していく。そうした視点は、自分にとって新たな気づきとなりました。
これは単なる衰えではなく、「反応し続けること」から解放されていく過程であり、執着が緩んでいく働きとも捉えられるのではないかと感じました。
すべてに反応しないという実践
また、「動じない自分」でいるための実践として示されていた内容は、仏教の教えと深く一致していると感じられました。特に、以下の点が自分の課題として強く響きました。
一つ目は、「すべてに反応する必要はない」という教えです。怒りに任せて反応することは、自ら苦しみを抱え込む行為であり、手放すことで自由になれる。この考え方は、頭では理解していても、日常生活の中で実践することの難しさを改めて認識しました。
二つ目は、「執着せず関わる」という姿勢です。関係を断つのではなく、思いやりを持ちながらも、相手や結果にしがみつかない。この在り方は、自分がこれまで混同してきた「関わり」と「執着」を見直すきっかけとなりました。
三つ目は、「観察する心」です。感情を自分そのものと捉えるのではなく、一時的に現れては消えていくものとして眺める。この視点を持つことで、感情に飲み込まれることなく、より安定した状態でいられる可能性を感じました。
出来事を抱え込みすぎない
さらに、「物事を個人的に受け取らないこと」や「諸行無常を受け入れること」は、対人関係や日常の出来事において、自分の心を守るための重要な指針であると感じました。
多くの苦しみは、出来事そのものではなく、それに対する自分の解釈や期待から生じているのではないか。そのことに気づかされました。
また、「寂しさ」についての言葉も印象的でした。寂しさは欠落ではなく、感受性があるがゆえの自然な状態であり、無理に埋めるものではない。この視点は、自分の内面を受け入れるうえで大きな助けになると感じました。
そして、「一期一会」という考え方に立ち返ることで、すべての出会いや出来事が一瞬のものであり、その一瞬に丁寧に向き合うことの大切さを改めて認識しました。
反応ではなく、対応を選ぶ
今回の学びを通して、自分にとっての課題は、「反応」ではなく「対応」を選ぶ心を育てることだと感じました。そして、執着を手放しながらも、誠実に関わり続けることです。
今後は、瞑想や日々の気づきを通して自分の心の動きを観察し、「動じない心」を少しずつ養っていきたいと考えています。
















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校卒業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
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