書いた人:釋隆雲
仏教を「宗教」として眺めていた感覚が、学びを重ねるうちに少しずつ変わっていく。その過程で見えてきたのは、遠い存在としての仏ではなく、自分自身を照らす生きた教えでした。本レポートでは、仏陀や祖師方への憧れから、自らの愚かさを見つめる経験、そして「仏教」から「仏道」へと感じ方が移っていく実感が語られています。
遠い仏から、自らを照らす教えへ
最近ふと、「仏教は宗教なのだろうか?」という考えが浮かびます。若い頃は、各宗派の祖師や仏陀に対して、祖師様方自身、お釈迦様自身のファンであり、その方々が説かれる内容を嬉々として、ワクワク楽しんでいるような状態だったように感じていました。
スターのように思っていたのかもしれません。人類史上最高のスーパースターに憧れていたのかもしれません。仏陀や羅漢、龍樹など、古い祖師方ほど神格化されておりますので、実在した人間ではないかのように崇め奉っていたように感じます。
まさに自他、自分と仏が分離した状態で、仏は私とは別の世界にいる超人となっていました。しかし、仏法を学び進めるうちに、仏陀も祖師方も苦悩された人間であることが、段々わかってきます。
自分の愚かさが照らされる
それと同時に、ありがたい教えから、まさに自らにつながる生きた教えへと変化し、自らを照らしてくれるようになります。もちろん、その代償として、自分の愚かさをしっかりと見ることになります。それは同時に、娑婆世界のフィルターなしに露呈してしまうことでもあります。
表現が下手で申し訳ありませんが、自分を照らされてしまいますので、世間体を保つための格好付けや嘘、妬み嫉みも、バッチリ露呈してくれます。
それは辛く、また自己嫌悪になりつつも、不思議と何かが軽くなるようにも感じます。怒りである瞋(しん)が出にくくなるようになった、と感じることもあります。
それもまた不思議ですが、自分をしっかり観察すると、自他の分別が弱まるように思います。仏教風に言いますと、「皆、無明の苦海を泳いでいる同士」という感覚かもしれません。
隠さず照らすことの救い
これはほんの一部ですし、また少し勇気が必要ですが、「自らを明らかに、隠すことなく徹底的に照らすことは大きな救いである」と、深く感じさせていただきました。この行為や感覚も、仏様からいただいた縁起と表現すれば、宗教風かもしれません。
また、もう「どうであるか」「どうしてこうなったのか」などの分析やジャッジをやめて、ただ南無阿弥陀仏だけになった時には、それは人の生、仏の慈悲という分別をも超えたもののように感じます。
「仏教」から「仏道」へ。
生がそのまま道である、ということなのかもしれません。少し道教みたいでもありますが、失礼ながら、感じたままを書かせていただきました。


















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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