「死の話をすると、重いと言われる」
60代後半の男性の方から、こんなお便りをいただきました。
同級生が相次いで亡くなり、自分の最期のことを考えるようになりました。お墓や葬儀のこと、延命治療をどうしたいか、家族と話しておきたいのですが、口にすると妻にも娘にも「重い」「縁起でもない」と嫌がられます。死の話をすると重いと言われる。それは、いけないことなのでしょうか。
仏教は、死を見つめることから始まっている
仏教は死に限った教えではありませんが、人にとって一番の苦しみは死です。ですから、死を見つめることから始まっている教えと言っても、過言ではありません。
私たちは生まれてきた以上、必ず100%平等に死を迎えます。これを避けて通ることは、誰にもできません。「私は死にません」という人はいないのです。
それなのに「縁起が悪い」と言ってしまうと、本当にその話ができなくなってしまいます。死ぬことを考えるということは、今をどう生きるかを考えるということ。だから、とっても大切なことのはずなんです。
はずなのですが、どうしても日本では「死ぬ」という言葉を避けようとして、見えないように、隠すようにしてしまう風潮ができてしまっています。決して避けられるものではないのだと、皆さんにも理解していただけたらと思います。
嫌がる人に、無理に話す必要はない
とはいえ、嫌がっている人に無理やり「ちょっと聞いてよ」とお話しするわけにはいきません。
まずはお手紙を書かれるとか、エンディングノートをご準備し始められるとか、そういった形で伝えていかれたらいいのではないかと思います。
無理やり相手を捕まえてきて「私が死んだらな」という話をされると、重いと感じてしまう方には、やはり重いものです。ご自身のできることから、なさるといいと思います。
私自身もすでにエンディングノートをしっかり書いています。たまに息子に「お母さんのエンディングノート、あそこにあるからね」と言うと、「重いね」と言われます。それでも、そうやって準備しておくというのは、すごく大事なことなのではないかと思うのです。
良寛の手紙――「死ぬる時節には死ぬがよく候」
私の大好きな言葉に、江戸時代の僧・良寛様の言葉があります。
その良寛さんが、災害に遭われて落ち込んでいる知人に宛てたお手紙の中で、こうお書きになられました。
「死ぬる時節には死ぬがよく候」
一部だけの引用ですが、これは現実を受け入れなさい、ということですよね。私たちは受け入れたくないから、苦しむのです。
死を語ることは、今日をどう生きるかを語ること
死を語るということは、今日をどう生きるかということを語ること。
ぜひご自身の中で、しっかりとエンディングノートを作られたり、お手紙をしたためられたりして、今をどう生きるかということをご家族と相談できる。そんな日が近く来るといいですね。
死への不安との向き合い方については、こちらの記事でもお話ししています。
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この記事をお話しした人
竹下暁蓮(たけした ぎょうれん)
ヨガを続けながら仏門へ。病と、大切な人の喪失を経て、あなたの今に寄り添う僧侶。
約550年つづく浄土真宗のお寺・慈徳山 得藏寺が運営する、誰にでもひらかれた、やさしい仏教の入口「仏陀倶楽部」でお話ししています。



















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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