こう書くと、とても薄情な感じがしますが、そういう意図ではありません。
私の人生を振り返ると、「恩」に縛られたときが、割ときつかったなって思うからです。
10万円貸してくれた御恩は、なんとなく10万円以上返せば、気持ち的には恩返しできたって感じになりますよね。
では、産み育ててくれた両親からの恩はどうでしょう?
人生の指導をしてくれた先生や先輩からの恩はどうでしょう?
もはや、プライスレス。
とても金額に換算できるものではありません。
そうなると、一生ずっと恩義を感じで奉公していかなければいけない気がしてきます。とても返せる代物ではなさそうです。
実際に、辞書で「恩」を調べてみると、
『社会的地位の高い主人が,従者や従者の家族に与えた精神的,物質的な給与一切を意味した。この主従関係が続くかぎり,給与一切は,従者がいかに奉仕を積重ねても等しくなりえない従者の終生かつ子孫の負い目と観念された。したがって受恩者には無限の義務が生じ,そのあかしとして主人への無限の忠誠が必要となった。恩はこうして,日本の封建社会の主従関係を支えた。 (→御恩 , 奉公 )』
(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
恩義を感じるのはとても大切なことですが、これを読むと、支配者側もそれを利用していたきらいがあります。
実際に現代でも、人が恩義を感じてるのをいいことに、とことん利用しようなんて人もたくさんいます。
仏教でも恩を大切にしていて、何かしてくれた人に感謝の心を抱くのはとても大切です。ただ、それに執着して縛られ過ぎるのは良くないことでしょう。
人間の世界は、早く生まれたものが、次の世代を育てて鍛えてあげ、次の世代へ渡すということを連綿と繰り返して、進化してきました。
親だって、先生だって、その親、その先生から、育ててもらったんです。だったら、その本人に感謝はすれど、「恩返し」なんて感覚はもはやいらないと思っています。
言い方を変えれば、親や先生への「究極の恩返し」は、鍛えてもらったその能力で、世の中に貢献し、また次の世代を育てあげることでしょう。
限りあるエネルギーの使い方として、その方がよっぽど広がりのある使い方だと思います。
相撲の世界では、稽古をつけてくれた先輩力士を本場所で破ったり、番付で追い抜くことを、「恩返し」と呼びます。
まさにこの世界観です。
恩をくれた人に奉公して、何かを返すという時代はもう終わりで良いでしょう。
自然に湧き出る「御恩」の気持ちを断ち切って、次の世代にエネルギーを思い切り注いでいくのが世のためです。