葬式仏教の弊害
多くの人が仏教を「自分とは関係ないもの」と考えがちな大きな理由として、お葬式の仕組みが明快でないことも挙げられます。
人類は、どんな国でもどの宗教でも、そしてどの時代でも、さまざまな形でお葬式 を行なってきました。
でも、日本では葬儀費用が諸外国と比較して飛び抜けて高額です。
地域差があるにしても平均して約200万円という日本の葬儀費用は、先進国の多くと比較して2倍以上になっているのです。
近年では「家族葬」と呼ばれる、家族だけの葬式も増えてきましたが、まったく葬式を行わないケースはまだまだ少ないと言えるでしょう。
葬式を行わないと、亡くなった人に対し失礼である、故人と関わりがあった人は気持ちのけじめがつかないなどの理由があるのでしょう。
ボクは個人的には、自分が僧侶でありながら、人が亡くなったときに必ずしもお坊さんがお経をあげる必要はないと思っています。
専門家の手を借りるのは最低限でいいと考えます。
もちろん、社会的な立場で必要な人をはじめ、盛大なお葬式をしてもらいたい人もいるでしょうから、家族で生きている間にしっかり話し合っておく必要はあるでしょう。
でも親鸞は、ただひたすら、生きている間に幸せになるためにはどうしたらいいか を説いただけで、人が亡くなったときに「立派な葬式をやりなさい」とは言っていな いのです。
日本で死者が出たときにやるべきことは、まず医師に死亡診断書を発行してもらうこと。
次に、地域の役所に死亡届を提出すれば「火葬許可証(埋葬許可証)」が渡されるので、死亡してから時間後以降に、火葬や埋葬を行います。
本来、法的に必要な行動はおおむねこれだけです。
もちろん、自分で火葬したり勝手な場所に埋葬することはできません。 ですから、火葬や埋葬にはそれぞれの専門家の助けが必要でしょう。
でも、お葬式については何の決まりもないのです。
ボクはこの金額を、たとえば残された家族で思い出の旅先へ出かけることや、みん なで故人の話をしながら食事する費用に充てればいいと思っています。
ときどき、立派なお葬式をしないと「亡くなった人を大切に思っていないようなやましい気持ちになる」「バチがあたりそう」という人もいます。
でもそれは「自力」で、「いいことをした」と思いたい、残された人の考えです。
親鸞の教えに従い、みんなが「今」をせいいっぱい生きることができれば、亡くなったときに不要なお金をかけて儀式を行う必要はないのです。
こうした考え方は一見、非常識かもしれません。
しかし、今では信じられないかもしれませんが、昔は畳の上(自宅)で死を迎えて いましたし、生まれるのも自宅でした。
今はどちらも病院です。
このように常識はつねに変わりますが、死者を敬う気持ちといった良識はいつの時代も変わりません。
一見、非常識に思えるボクの考えも、良識から外れているわけではないのです。