「イヤイヤ。だからといって、一心不乱に念仏を唱えても、阿弥陀様が奇跡を起こし てくれるわけじゃないし?」と、あなたは思うでしょうか。
実は、そう反論する人に限って、実際に念仏を唱えたことがないのです。
ボクは、念仏の効果を疑う人には、「1回、やってみて」と勧めています。
実際に、念仏を繰り返すのは人間の心身に大きな影響を及ぼします。
一心に念仏を唱えると、余計な考えが頭に浮かばない無心の状態になることができます。
これは念仏だけに限りませんよね。 たとえば、ゆっくりとしたテンポで深呼吸をしたり、ウォーキングをしたりする。
また、一定のリズムでガムをかんだり、「わっしょい、わっしょい」と声に出してお神輿を担ぐ。
こうした行動はすべて、ストレスや不安を抑えて平常心を取り戻してくれるセロトニン神経を活性化してくれます。
次から次へと雑念が浮かぶままに任せると、脳は膨大なエネルギーを消費すると言われています。
「南無阿弥陀仏」と繰り返し無心になることで、頭がクリアになり心が静かになります。
心が整えば、臨機応変に悩みに対応できるようになれるのは、科学的な事実なのです。
専修念仏(せんじゅねんぶつ)とは
親鸞の言わんとした「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)の教えは、とにかく念仏さえ唱えれば、人生がすべてうまくいくという意味ではありません。
また、どれだけ悪いことをしても「南無阿弥陀仏」と言えば、許されるという意味でもないのです。
親鸞が教えを説いた当時も同じで、「念仏を唱えるだけで救われる(専修念仏)」の教えの意味を誤って理解し、念仏さえすればどんな行いをしても許されるとして悪事を行うものや、伝統的な仏教を非難するものたちも現れました。
しかし、のちに親鸞は「念仏とは、そもそも阿弥陀仏様から信心の心が起こるよう工夫された言葉だ」と開眼。
念仏を心に思い浮かべるだけでいいとしたのです。
そもそもお釈迦様が伝えた仏教では「不幸は自分の考え方が生み出すもの」だとされています。
しかし、どれだけ学び続けたとしても、考え方そのものを変えるのは非常に困難で ある。
このことは、 20年もの修行を積んだ親鸞がいちばんよくわかっていました。
また、親鸞は、悟りを開くために「自力でなんとかしようとする」ことのむずかしさも身にしみていました。
だったら、自分のできることだけに力を注いだら、自分の力でどうにもならないことは、シンプルに念仏を唱えて阿弥陀様にお任せするのがいいという結論に達したのです。