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第三十六回「物事は『起こすもの』ではなく『起きるもの』と知る」

第三十六回「物事は『起こすもの』ではなく『起きるもの』と知る」

親鸞聖人の教えは何度かご紹介しましたが、あらためてまとめてお伝えしましょう。仏教の宗派の多くは、欲望を抑え込み、ストイックに修行を重ねることで悟りに近づくと教えています。

親鸞聖人が生きた時代は、仏教とは「選ばれた人たちだけが、悟りを開くため」に研究をするものであり、悩み苦しむ庶民を救うものではありませんでした。しかし、浄土真宗では「厳しい修行は必要ない」としています。誰でも「南無阿弥陀仏」と唱えれば、阿弥陀さまの本願力によって救われると説いているのです。

そして、阿弥陀さまの本願力によって救われるためには「物事は“起こす”ものではなく“起きる”もの」と知っておくべきだと親鸞聖人は教えています。これは、人生には「絶対的」なものもあれば「相対的」なものもある、そして「自力」ではどうにもならないことがあるという事実を知りましょうということです。

私たちはつい、自分で物事を起こしていると考えがちです。でも、そもそもどんな国のどのような両親のもとに生まれるかは選べませんし、性別や体形なども自分で決めることはできません。大人になってからの決断は、自分の意思で行なっているように思うかもしれませんが、進学先や就職先などにしても、ほかの人の思惑が絡んで思い通りにならないことも多いでしょう。

人間関係だって、たまたま近くに住んだり、同じ会社に勤めるなどのご縁で結ばれることがほとんどです。つまり、多くの人が悩む、生まれ育った環境や地位、財産、病気や死、他人の評価などの、自分ではどうにもできない「相対的」なものに対し、「自分で起こしている」と思わずにいると、心を見失わなくなり「報われる」のです。

そうした「相対的」なものは、阿弥陀さまにまかせてしまう。そして、健康や人間性、物事の見方や考え方など、周囲の状況には関係なく自分次第でどうにかなる「絶対的」なものに力を注ぐことで、幸せになれるというのが、親鸞聖人の教えなのです。

親鸞聖人は、比叡山を下りたあと、行く末に悩む人が「夢告」を得られるとされている、六角堂に100日間こもる決意をします。そこで、観音菩薩さまの夢告から、人間の煩悩をすべて否定する必要はないと気づかされます。そして、「煩悩」だらけの自分と同様、煩悩から逃れられずに悩み苦しむ多くの人々に、教えを広めていこうと決意したのです。

仏教のほかの宗派とは一線を画す、親鸞聖人の代表的な教えの一つに「悪人正機」があります。「悪人正機」とは、「善人ですら極楽浄土に行けるのだから、まして悪人はなおさらだ」という教えです。

この言葉を表面的に解釈しようとすると「善人よりも悪人のほうが、浄土に行くにふさわしい」と述べているように思えます。実際に、この言葉を「悪いことをする人ほど救われる」と間違った解釈をした人たちが現れたこともありました。

しかし、親鸞聖人の言う「悪人」とは、一般的に考える、倫理や道徳から逸脱した行動をとる人のことではありません。「悪人」とは、煩悩や欲にまみれて、永遠に「苦」から逃れられない、ボクたちすべての人間のことです。阿弥陀さまは、そんなボクたち、すべての「悪人」を救うという本願をたてられたのです。

では、親鸞聖人のいう「善人」とはどんな人のことでしょうか。実は、自分のことを「善人」だと思っている人ほど、自分の心をごまかしたり、よこしまな気持ちを見てみないふりをしたりしがちです。そして、他人を信用せずに、自分の力でなんとかできると考えて「他力」を頼むことをしない人たちが、親鸞聖人の言う「善人」なのです。

私は親鸞聖人ほど、自分の煩悩や「欲」に向き合った人はいないと考えます。そうして親鸞聖人は、自分も含めた人間すべての本質を見抜き、そんな凡人である私たちこそ救われると説いたのです。

ここで、もう一つ、親鸞聖人の教えの根幹にある「他力本願」について、誤解のないようにご説明しましょう。もしかしたら「一般的な“常識”などの“他力”に従って生きるのも、“他力本願”になるのでは?」と考える人がいるかもしれません。また同じように、まわりの意見などの、自分の外側にあるものに左右されるのも「他力本願」ではないのかと疑問を持つ人もいるかもしれませんね。

一般的に、現代では「他力本願」とは、人まかせにする、他人の力をあてにするという意味で使われることが多いもの。「他力」を他人の力、そして「本願」を自分の願いと解釈してしまうと、自分の願いを人まかせで叶えてもらおうという意味に受け取れるかもしれません。でも、親鸞聖人がおっしゃる「他力本願」とは、人をあてにし、まわりに流されて生きるという意味ではありません。また、何もかもあるがままにまかせて、何もしないでいいという意味でもないのです。

親鸞聖人のおっしゃる「他力本願」とは、阿弥陀さまのお力をよりどころとして、日々、精一杯生きることで絶対的な幸福に至ることができるという意味です。親鸞聖人は「他力というは、如来の本願力なり」とおっしゃっています。

つまり「他力」とは、阿弥陀さまが生きとし生けるもの、すべてを救おうと働かせてくださる力(本願力)のことなのです。この阿弥陀さまの「本願力」とは「果てしない昔から、私たちを苦しめてきた無明の闇を破り、どんな人をも絶対に幸福にする力」です。つまり、一般的な常識やまわりの意見などではなく、私たちの苦悩のありとあらゆる元凶を壊し、絶対的な幸福に導いてくださる力に頼ることで、「報われる」人生になるのです。

仏陀倶楽部では、 こうした日々の迷いや立ち止まりを、

一人で抱えずに言葉にする場があります。

監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

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