私は浄土真宗のお坊さんですが、浄土真宗の開祖である親鸞聖人は「最も報われない僧侶」だったのではないかと考えています。なぜそう思うのか、簡単に、私の解釈を含めた親鸞聖人が歩んだ道のりを説明しましょう。
選ばれたお金持ちのエリートだけが出世した社会だった
親鸞聖人は、貴族の長男として生まれました。ただ、漢学者であった父は、当時、全盛期であった平氏を追討しようとした、源頼政に関与していたため、出世の望みを断ち切られ経済的にも困窮します。
今で言えば、企業内での派閥争いに負けた上司についていたため、窓際に追いやられたようなものです。ただ父は、親鸞聖人の学問的な才能を見抜いていたため、自分のように出世争いに巻き込まれるよりは、アカデミックな世界で生きがいを見つけて欲しいと、親鸞聖人がわずか9歳のとき、得度(僧侶になるための出家の儀式)を行い、比叡山に入山させたのです。
伝教大師、最澄が開祖である天台宗の総本山、比叡山の延暦寺は、当時、仏教を学ぶための総合大学のような存在でした。前年、失った母に「立派な僧になるよう」言い聞かせられた親鸞聖人は、両親の願いを背負い、比叡山でひたすら学問と修行に励みます。
たとえて言えば、いい大学に行くために、小学校高学年から脇目も振らず、朝から晩まで大学合格のために、勉強一筋の生活を送っているようなものでしょう。そうして、9年間の見習い時代を終え、18歳になるころに親鸞聖人の山内での身分が「堂僧(どうそう)」と決まります。
比叡山に学ぶ僧侶の身分は、「学生(がくしょう)」「堂僧(どうそう)」、そして「堂衆(どうしゅう)」に分かれていたと言われています。「学生」は貴族の出身者などで、華々しい栄達の道を目指すいわばエリートコースに選ばれた人たちです。
「堂僧」は「学生」が連れてきたお付きのもの、そして「堂僧」とは、山内の諸堂に奉仕をしたり、特定の日時にひたすら念仏を唱える「不断念仏」を行う地位の低い僧でした。世俗化していた比叡山では、貴族の出身でなければ出世することは叶わなかったのです。
真面目に修行を積めば「学生」になれると信じていた親鸞聖人にとっては、衝撃的な発表だったことでしょう。そして、これまでの努力が「報われなかった」と感じたはずです。
「欲望」「怒り」「妬み」煩悩を捨て去ることができなかった親鸞聖人
今で言えば、家族の期待を背負って、一生懸命、勉強して努力したのに、寄付金の額で入学を許可されなかった学生のようなものでした。でも、父母の願いを裏切る結果になってしまった親鸞聖人は、前にもまして「人の世の通り」を求めて修行に打ち込みます。
しかし、仏さまの正しい道に近づこうとすればするほど、自分の人間らしい「醜い」面が目につきます。名誉を求めて失望した自分は、欲望、怒り、妬みなどの、煩悩を捨て去ることができない。
さらに、20代の健康な若者だった親鸞聖人は、異性への好奇心を抑えることができません。どれほど努力しても目標が達成できないとわかっていながら、あたかも現代の学生が、遊びやデート、バイトやおいしいものを食べるなどの欲望をすべて抑えて勉強するように、親鸞聖人は禁欲的にひたすら修行に励みます。
しかし、目指してきた目標を打ち砕かれ、かといって、仏さまの悟りに近づくことさえできないふがいない自分に対し、「地獄に落ちるしかない」と、深い挫折と絶望を味わいった親鸞聖人は、ついに29歳で山を降りる決意をするのです。
このとき親鸞聖人は、自分で心を磨いて仏さまの悟りの道に近づこうとするのが、いかに難しいかを身を以て体感します。そして、心は次第に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも平等に死後は往生できるという「専修念仏(厳しい修行などがなく、ひたすら念仏を唱えることで救われる)」の教えに向かっていくのです。
親鸞聖人は、20年間、比叡山で修行を積みました。「専修念仏」の教えを説く法然も、 同じように30年もの間、比叡山にとどまりましたが、どれほど熱心に学んでも、学問や修行では救われることはなく、43歳で念仏の教えを得ます。
親鸞聖人は、どんな批判や非難にも動じずに、穏やかに生きる法然の奥に「専修念仏」の教えを感じます。そして法然のもとで学ぶと決めたのです。法然に出会い、親鸞聖人の人生は、いったんは「報われた」かもしれません。

しかし、その後も、さまざまな難関が親鸞聖人を襲います。たとえば、弟子たちの中に、仏教者としての生き方を間違えて、道を踏み外した者が現れるなどから、法然教団への弾圧が高まります。
そして、ついに「専修念仏」が禁止となり、法然は土佐に、そして親鸞は現在の新潟県である越後に島流しになりました。また晩年になっても、教えを守るために、勝手な振る舞いをした子息の「義鸞」との縁を切らざるを得なかった。
でも親鸞聖人は、最後まで人間らしく生きました。90歳になり死期が近づいてきたときも「死にたくない」という自分の煩悩を認めながら「“行きたくない”と思う人ほど、仏さまは愛おしく思ってくださいます」と、死を受け入れて「報われた」気持ちの中で、生涯を終えたのです。
親鸞聖人はなぜ、公然と「肉食妻帯」をなされたか?
親鸞聖人といえば、僧侶として公然と「肉食妻帯」をなされた最初の方として知られています。現代では、結婚をし、精進料理だけでなく魚や肉を食べるお坊さんは珍しくありません。
でも当時は、「欲望」「怒り」「妬み」などの煩悩を抑えて修行に励み、自分の努力・精進で悟りを得ようとする考えが主流です。煩悩の中でも、特に強いのが5欲と呼ばれる「食欲」「財欲」「色欲」「名誉欲」「睡眠欲」であり、「肉を食べる」「女性に触れる」などの欲を満たす行為は禁じられており、とんでもないことだとされていました。つまり、親鸞聖人の行動は、大変「非常識」な行動だったのです。
親鸞聖人の時代も、密かに「肉食妻帯」されている僧侶はいました。でも、公然と「肉食妻帯」することで、親鸞聖人は「戒律を破った堕落坊主」「色坊主」などと避難の的となったのです。
私は、親鸞聖人があえて「肉食妻帯」を公表したのは、ある覚悟をしていたからだと考えます。それは「阿弥陀さまの本願を人々に伝えること」。「阿弥陀さまの本願」は、善人も悪人も、老いも若きも、男も女も、一切の差別がありません。
僧侶であろうが、肉食妻帯をしている庶民であろうが、自力で悟りに至ろうとしなくても、阿弥陀さまにおまかせすれば、そのままで幸せになれる。苦行をしたり欲望を切り捨てることができる人だけが救われるのが仏教ではありません。
生きとし生けるもの、すべてが救われるのが阿弥陀さまの本願です。そのことを身をもって伝えようとして「肉食妻帯」していることを公にしたのではないでしょうか。私は、まわりとの輪を乱したら、今よりもはるかに生きづらかったであろう時代に、たとえ「非常識」だと思われても、自分の信念を貫いて行動した親鸞聖人の教えだからこそ、出世の王道を外れていながらも、必死でビジネスを運営していた私の心に響いたのだと思っています。





















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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