ウィキペディアでは、智慧に対して一切の現象や、現象の背後にある道理を見極める心作用を意味する仏教用語とある。慈悲においては、他の生命に楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きを指す仏教用語とある。ただ、一般的な日本語としては、目下の相手に対するあわれみ、いつくしみの気持ちを表現する際に用いられるとある。
智慧と慈悲は御釈迦まさが生きるにつきまとう苦しみへの答えとしてお教えになられた究極の概念である。しかしこの真理を知るものは現代社会を現実に生きて見渡しても多くないと言わざるを得ない。
具体的な行動原理として慈悲があると考えられるが、それを知るためには智慧が人用である。しかし、目下の相手に対するあわれみやいつくしみということだけが独り歩きしている。確かにこの合同の作用の結果、社会は優しいだろう。しかしその優しい社会にあっても理解されない、孤独に震える者がいることも事実。お釈迦様はこの取りこぼしのある状態を慈悲とは言っていない。私はこれを智慧なき慈悲と読んでいる。
私は対人援助職を極んと、日々生きるを見つめている。そうした中、お釈迦様は私にとって宗教の教祖ではない。私の目指す対人援助の真理に到達され、この上なく秀逸に優しく実践してきた大先輩、否、師であると心の底から思っている。
お釈迦様はあらゆる人の生きるを目の当たりにし、自身もそのうちの一人として溢れ枯れることなく湧き上がる苦しみに対しどうすれば良いかを考え抜かれ、言語化し自身だけでなくそれぞれに苦しむ人にたいしてお釈迦様自身が到達された智慧をお伝えになられた。それもその目の前の人に届くように。
しかしここにも苦しみが生まれる。智慧だけを例えその相手に届くように伝えても、その人に実践がなければその人は救われない。また一つ実践すれば未来が変わる。すると必要な智慧も変わる。諸行無常であり諸法無我なのである。しかし人は能動的な行動を起こすときは決まって恐れに基づいている。恐れに基づく思考や行動は欲である。このジレンマにどれだけの智慧があろうとも追いついては行かない。
この状況をお釈迦様自身が見つめられ、出した真理が本当の慈悲ではないかと私は考えている。
実際、慈悲は本来、四無量心であり、慈無量心、悲無量心、喜無量心、捨無量心を指している。それぞれ読んで字の如しであるが、一番注目したいのは捨無量心である。これは「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心である。これこそが取りこぼしのない本当の慈悲であると、対人援助の実践の中で私が日々体感していることである。
人はそれぞれに生まれ、それぞれに生き、それぞれに死ぬ。このそれぞれを各個々人の価値観で優劣をつけ、目下の者を作りあわれみやいつくしむことは確かに優しい社会に見えるかもしれないが、押し付けと無理解を生む。
慈、悲、喜を与えるのではない。ともに味わうのである。そのコツこそがそれぞれの人が捨無量心を忘れないことであると思う。どんな人がどのように生き死んでも、平静であればそれはその個人からしたら理解されたと同様の幸福を感じるのだから。
まだまだ遠く及ばない真理。しかし智慧と慈悲の無限の回転を私はこれからも行っていく。