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「自灯明・法灯明」への疑いから、他力に気づくまで

「自灯明・法灯明」への疑いから、他力に気づくまで

書いた人:釋 隆雲

「自灯明・法灯明」という言葉に、かつては反発さえ感じていたーー弱く心もとない自分を、どうして拠り所にできるのか。しかし、自分自身に起きることを長く観察するなかで、その受け止め方は少しずつ変わっていきました。本レポートでは、仏法への疑いを抱えながら歩んできた経験と、その先で「他力」という感覚に気づいていく過程を振り返ります。

「自灯明・法灯明」への反発

「自灯明 法灯明」。お釈迦様の最後のお言葉として有名ですが、昔はこの言葉が苦手でした。

理由は簡単です。「この心もとない自分を拠り所になんてできない!」という弱さ、怖さでした。「この弱い自分を頼るなんてあり得ない! 覚者だから言える言葉だ!」とケンカ腰です(笑)。

また、生きているお釈迦様がすぐそばにいて教えてくれるならまだしも、語ったお言葉だけが残った経典では、これもまた寂しい……と、わがまま言い放題でした(もちろん頭の中だけですが)。

しかし悔しいのですが、良いことも辛いことも、それが起きたとわかり、体験するのはどうやっても「私」の中でしか起きないことがはっきりしてきました。

どうあがいても「私」の中の出来事しか起きません。20年くらい(長いのですが)観察していると、主役はいつも「私」になっていました。

「諦め、明らめ」て楽になった

ならば、信頼するしないに関係なく、これをやっていくしかない。ある意味「諦め、明らめ」たところ、何かが「楽」になりました。

起きてくる事象側に責任転嫁せずに済みますので、深く長く事象の原因を探り、「あーでもない、こーでもない」という葛藤が減りました。

こういった経験は、恥ずかしながら「仏法への疑いが減り、モチベーションが上がる」大きな縁となります。そして、法を求めるようになります。

自灯明・法灯明から「他力」へ

さらに月日が経ちますと、このような体験や思いというものは、自らの力で得たのではなく、ギフトだと感じるようになりました。つまり「他力」です。

一見、「自灯明・法灯明」とは真逆に感じる「他力」という感覚は、自分を観察していると自然に湧いてくるように思いました。

なんの疑いもなく信じられれば楽かもしれませんが、自分は仏教徒と思い込んでいただけで、仏法を本気で信頼していなかったのだとわかりました。

弱いから、怖いから頼るだけのもので、祈れば自分の苦しみや恐怖が減るという「費用対効果」を査定していたことに気がついて、愕然としたことを思い出します。

苦海だからこそ気づくこと

しかし、それでも娑婆は娑婆ですから、いろいろ大変です。そんな苦海だからこそ、「他力に気づく重要性」を感じております。すべてありがたいことです。

南無阿弥陀仏。

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監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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