書いた人:安藤弘
幼少期の母親との関係で負った心の傷は、大人になってからも悲しみや孤独感として残ることがあります。長年のボディーワークや自己対話を通して、母親への恨みと愛が自分の中に共存していることに気づき、両親との関係を見つめ直すようになるーーその経験は、仏教の「縁起」や「他力」の教えを考えるきっかけにもなっています。本レポートでは、過去の傷と向き合うなかで見えてきた他者への思いと、得度を目指す意味の変化について綴られています。
得度への思いと、心に残る幼少期の傷
私が得度を受けたいと考えるようになったきっかけは、当初、どこか漠然としたものでした。
誰かの役に立ちたい。苦しんでいる人に寄り添いたい。
そのような思いはありましたが、具体的に何を伝え、どのような活動をしていきたいのか、自分自身でも明確にできていなかったように思います。しかし、これまでの人生を振り返り、自分自身の心と向き合い続ける中で、その思いが少しずつ明確になってきました。
私には、幼少期に母親との関係の中で負った、深い心の傷があります。その傷は大人になった現在も恐怖心や悲しみ、孤独感、自己否定、そして「愛されたい」という強い願いとして、自分の心に残っていることを感じています。
最近受けたリーディングセッションでも、こうした自分の内面に改めて目を向ける機会がありました。
母親への恨みと、消えることのない愛
以前の私は、母親に対して恨みの感情を抱いていたこともありました。しかし、長年にわたり参加してきた身体を通したボディーワーク、そして自分自身との対話を重ねる中で、少しずつ心境に変化が生まれてきました。
それは、母親もまた、一人の不完全な人間だったのだという気づきです。私自身も娘を持つ親です。親になったからといって、すべてが正しくできるわけではありません。
迷い、悩み、間違いながら、日々を生きています。そう考えたとき、母親もまた、私を育てるために必死だったのだろうと思えるようになりました。
父も同じです。家族を守るために懸命に働き、生きてきた姿を、私は幼い頃から見てきました。もちろん、そうした理解によって、過去の悲しみや心の傷がすべて消えたわけではありません。
今でも、母親に対する複雑な感情は残っています。しかし、恨みや悲しみがある一方で、私は両親を深く愛しているのだということにも気づきました。恨んでいる気持ちがあることと愛していることは、必ずしも矛盾しないのかもしれません。
自分の弱さを見つめ、仏教の教えに向き合う
人は誰しも不完全であり、間違いを重ねながら生きています。そして、その人がどのような行動をとるのかということにも、それまでの人生や環境、経験など、さまざまな背景があるのだと思います。
こうした気づきを得たとき、私は仏教で説かれる「縁起」の教えについて、改めて考えるようになりました。私たちは何一つ自分だけで成り立っているわけではありません。
両親から命をいただき、多くの人と出会い、時には傷つき、時には支えられながら今日まで生きてきました。そのすべてのご縁が今の私を形づくっているのだと思います。
また、他者の弱さや不完全さを認めるということは、自分自身の弱さや不完全さを認めることにもつながるのではないでしょうか。
私はこれまで、仕事や生活の中で何とかしなければならない、自分が頑張らなければならないという思いにいくどとなく苦しめられてきました。
しかし、自分の力だけではどうにもならないこともあります。自分の心さえ、自分の思いどおりにはなりません。そうした自分自身の姿を見つめることは、浄土真宗における他力の教えに向き合ううえでも大切な学びであると感じています。
悲しみに寄り添うことから始まる、これからの道
そして今、私の中には一つの志があります。それは、多くの人たちに愛を広めていきたいという思いです。ここでいう愛とは、誰かに自分の考えを押しつけることでも相手を自分の思いどおりに変えることでもありません。
一人ひとりが抱える悲しみや孤独、心の傷を否定することなく、その存在を尊重し、寄り添うことです。私自身、長い時間をかけて自分の心と向き合ってきました。
その中で、身体を動かすこと、感情を表現すること、自分自身の内面に耳を傾けることが自分を理解する大切な機会となりました。
だからこそ、今後は同じような苦しみを抱えている人たちと、たくさんの対話を重ねていきたいと考えています。そして、この思いに賛同してくれる仲間たちとともに、表現活動や自己対話を通して、一人ひとりが自分自身の心と向き合える機会をつくっていきたいのです。
私は、誰かの苦しみをすべて理解できるわけではありません。ましてや、誰かを必ず救えるとも思っていません。しかし、分からないからこそ、相手の話を聴くことが大切なのだと思います。
自分自身も悲しみや迷いを抱えた一人の人間として、相手と向き合っていきたい。そして、一人でも多くの人が、自分自身の存在を否定することなく、生きていけるようなお手伝いができればと願っています。
私にとって、得度を受けたいという思いは以前とは少し変わってきました。以前は僧侶になること自体が目標の一つだったのかもしれません。
しかし今は、僧侶になることが最終的な目的ではなく、仏教の教えを学びながら、自分自身の人生と向き合い、その学びを人との関わりの中で実践していくことに意味があると考えています。
仏教の学びは日常生活から離れたところにあるのではなく、仕事や家族との関係、悲しみや喜び、日々の迷いの中にこそあるのだと思います。
私はこれからも迷い、間違い、悩みながら生きていくことでしょう。それでも、自分自身と向き合うことをやめず、一つひとつのご縁を大切にしながら、仏教の学びを深め、得度に向けて歩んでいければと願っております。

















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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