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人間関係の苦しみと「自分だけが正しい」という思い

人間関係の苦しみと「自分だけが正しい」という思い

書いた人:仏陀倶楽部 会員

人間関係で傷ついたり、相手を「間違っている」と感じたりするとき、その判断は本当に絶対的なものなのでしょうか。本レポートでは、縁起や無常、凡夫という仏教の見方を手がかりに、自分にも他者にも見えていない事情があることを確かめながら、人を簡単に裁かず向き合う姿勢について考えます。

「自分が正しい」と思うところから

人間関係の中で生じる対立や苦しみの多くは、自分の考えを絶対視してしまうところから生まれます。

私たちが「正しい」と呼ぶものは、常に一定の因縁、つまり、ある時代、ある立場、ある条件のもとで成立した相対的な理解に過ぎません。縁起と無常の教えが示すように、あらゆる存在は無数の因縁によって成立し、絶えず変化しています。

人間は、自分中心の見方から離れることができない煩悩を抱えて生きる凡夫です。縁起と無常の世界に生きる凡夫は、無数の因縁のすべてを知ることはできません。

したがって、自らの判断や見解を絶対化し、「自分だけが正しい」とすることはできないのです。

見えていないご縁への謙虚さ

私たちは縁起の教えを通して、自分の判断の限界と、見えていないご縁への謙虚さを学ぶことができます。

もし、親や上司、周囲の人の言動で傷つくことがあったときには、この世界に生きるすべての人は凡夫であり、無数の因縁のすべてを知ったうえで判断しているわけではありません。そのため、相手の言葉や判断を、絶対的なこととして受け止める必要はないのです。

ただ、自分が感じている世界もまた、その時点でのご縁の現れです。自分自身の考えを絶対的な判断として使ってしまえば、他人にとっては不適切と受け取られることもあるため、注意が必要です。

他者を簡単に裁かないために

そのように考えると、凡夫である私たちが自らの考えや判断を絶対的に正しいものとして断定することはできません。自らの判断を絶対視しないことと、善悪の判断を放棄することとは異なります。

それでも、他者の言動について一面だけを見て「絶対的に間違っている」と断定することは、避けるべきなのかもしれません。このように申し上げている私自身も、凡夫の一人です。凡夫である私たちには、絶対に正しいと断言できる答えはありません。

だからこそ、煩悩を抱えたままの私たちを見捨てず、必ず救い、浄土へ導くと誓ってくださっている阿弥陀如来の本願の中で、自らを絶対視せず、また他者を簡単に裁くことなく、人間関係の中で出会う一人ひとりとのご縁を大切にしながら、謙虚に人と向き合っていきたいと考えています。

南無阿弥陀仏。

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監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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