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人間に生まれたことの苦悩と、仏教が見出した救い

人間に生まれたことへの深い苦悩

私は40歳になる頃まで、人間に生まれたことを悔い、申し訳ないと思っていました。時代背景もあったと思いますが、小学生の頃に出会う大人の多くは戦争体験者であり、恐ろしい話をよく聞かされました。原爆手帳を持つ叔母や、僧侶である大叔父が香川県高松の大空襲の体験を語る語り部として活動しているのもあり、戦争がいかに酷いか、人間の残酷性を教えられました。

また、高度経済成長期からの副産物である汚染、公害、それらから起きた病気や学生運動のニュースも気になっていました。地球の中で人間がいることで、どれだけ他の生き物等に迷惑をかけているのか、またいつまで人間は必要以上に求めて争うのか、という問いは常に私の中にありました。左思想の方々が先輩に多かったことも、影響があったのかもしれません。

「人間=存在悪」という認識

私の家庭は、母が神道系、父は仏教系でしたが、非常に右思想でしたので、祝日に国旗を出す家でした。そのことに恥ずかしい思いを抱いていた記憶もあります。高校の終わりくらいからは、人間でいることで悩むくらいになりました。そして、「人間=存在悪」という概念から離れられなくなっていたのです。

自分への戒めとして、自分自身を観察すると、次のような傾向に気づきました。

  • いつも何か欲しがっている
  • 地位名誉、世間体を気にする
  • 自分をいつも叱咤激励している
  • 愚痴、妬み、嫉み、噂話をしてしまう
  • 生き物を摂取しているのに実感が薄い

これらはまだ無限にあります。それらの問題点を意識することで、さらに生きる苦しみが増えました。まさに思春期にありがちな矛盾との葛藤でした。

仏教との出会いと煩悩への絶望

そこで私は仏教に救いを見出そうとしました。仏教でよく語られる盲亀浮木の喩えを聞いても、確率論的に人間に生まれるのは奇跡の中の奇跡だとしても、「そんな悪業を自分は持っていたのか」と嘆き、仏説譬喩経を聞いては「人生は一瞬でいつ死ぬかもわからぬ身で、一時の甘露で一大事を忘れぬような生き方を皆がしている」と教えられても、「愚かなのは当たり前ではないか、世の中を見れば一目瞭然」とひねくれていました。

しかし、仏教は私を裏切りませんでした。人間はこの浅ましい煩悩の塊であることを見抜き、手のつけようのない代物と悟り、宮澤賢治さんよろしく、「自分を勘定に入れない生き方」、つまり逃避ではない煩悩への絶望から生まれた本当の意味での他力本願を受け入れ始められると感じました。

煩悩具足から感謝への変化

それからは少しずつですが、煩悩具足だからこそ、仏教に救いを求める気持ちが湧き、自我が生きているという思いがあるからこそ、相対する全体性、大いなる全てを動かす縁起の世界しかなかった、と感じるようになりました。

全てが元々仏様だったことを思い出す方便であり、全てが慈悲だという理解を起こさせるための摩訶不思議であると教えるためだと、思えるようになったことで、人間に生まれたことに抵抗することが無くなり、またその抵抗が事実を垣間見せていただく力となっていることに感謝するように変化しました。ありがたし、ありがたし。南無阿弥陀仏。