書いた人:伊藤勇気
「自分」という存在は、本当に固定されたものなのでしょうか。人との関わりを「縁」として捉えていく中で見えてきたのは、自己とは無数の縁が交わる場所のようなものではないか、というイメージでした。良縁も悪縁も含めて絶えず変化する人との繋がりから、諸法無我や諸行無常、そして今を丁寧に生きることへと思索が広がっていきます。
人との繋がりから「自分」を考える
自分しか見えなくなる。何でも自分を中心に考えてしまう。なぜそうなってしまうのだろうかと思った時、人との繋がりについて考えてみました。
他人と縁で結ばれるとして、それが良縁でも悪縁でも自分で選ぶことはできません。さまざまな縁があって、歳が近い、離れているも関係ないし、親密かそうでないかすら関係なく、自分と関わる他人とは少なからず何らかの縁で結ばれています。
その中で絶対的にあるのは、いつでも「自分」という認識です。自己を、自分を見つめよ、と。どんな時でも「己」を中心に物事を認識し、理解して、考える。
ならば、自分が「自分」であると認識できなければ、自己は存在しないのでしょうか。この絶対的な「自分」というものが、どのような形をしているのか。それを考え、深めていく時に、初めて他者への慈悲や慈愛の大切さに気づくことができるのではないか、とふと思いました。
「自分」は縁が交わる場所なのか
イメージするならば、自己、自分という存在は、無数の人との「縁」の交点として認識され、存在するものです。しかも、その交点は常に一定の位置にあるのではなく、さまざまな人との関わり方によって揺れ動いている。
良い、悪い、心地よい、嫌悪感を持つといった感情も、この交点の動きで説明できるのではないでしょうか。人とのさまざまなやり取りによって揺れ動くその交点こそが、自分という存在、自己というものなのか。
そう考えてみると面白くて、もはや「自分」という固定された実体が、実はないのではないかと思えてきます。それは諸法無我であり、また、繋がる縁は常に、秒単位で変わっていく。だから交点も常に移動している。それが諸行無常なのではないか。
変わり続ける自己と、今を生きること
そうであれば、「自分を変えなければ!」と無理に気張る必要もありません。自分で自分を変えようとしなくても、常に自分という交点は固定座標ではなく、動いているのだから。
また、自己嫌悪になることもないのではないかと思います。そもそも、さまざまな縁によって作られた交点が自己なのだから。みんながみんな、この縁によって結ばれていて、それぞれの交点を作り出している。
だからこそ、今を丁寧に生きること、今、この瞬間を大切に生きることの大切さが見えてきます。縁という考えを強くしていくと、「自分が! 自分が!」という思いから一歩引いて物事を観て、進んでいけるような気がするのです。



















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
コラム一覧 → こちら