書いた人:伊藤勇気
「自分」とは、いったいどこにあるのでしょうか。自分で認識している自分が、そのまま本当の自分なのか。それとも、人との関わりや周囲からの見られ方によって形づくられていくものなのか。自分の存在をめぐる素朴な疑問から出発し、「自分が、自分が」と考えることへの気づき、そして縁の中で存在する自己について思いを巡らせます。
「自分」はどこにあるのか
自分の存在とは何か。自分が自分であると認識するのは、どういう時なのか。これを考えていると、自分が自分を認識できなくなってきます。
「私」という存在はどこにあるのか。私というものはどこにあるのか。今ここに存在していて、いろいろと考えている自分自身は、はたして「自分」という存在なのでしょうか。
人は、少なくとも今世を生きる私たちは、自分がいるものとして自分を基準に考えます。さまざまな基準や受け取った感覚、感情。そういうものを自分で判断しながら、物事を考えています。
しかし、本当にそこに自分はいるのでしょうか。「自分」という存在が今、ここにあるのでしょうか。あまりこういうことを言うと、「頭がおかしくなった!」と思われるかもしれません。
それでも疑問に思うのです。自分の存在とは何なのか、と。
周りの縁によって形づくられる自分
「頭がおかしくなった」と他人に認識されれば、それはそこで形づくられた「自分」でもあります。
もし、周りの縁によって作られていくものが自分であるならば、今、自分が想像し、思い、認識している自分は自ら作り出した想像上の自分なのではないでしょうか。
自己という存在が、自分だけで作り出すものではなく、周りからの認識があって初めて形づくられるものであるなら、「自分が、自分が」と思っていることの独りよがりさにも気づくことができるように思います。
そして、そこでまた「自分」という存在を認識するのでしょう。
思うままに書いてみました。
南無阿弥陀仏。




















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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