私は日々、たくさんの相談を受けていますが、その中でも多いのが「報われない」というものです。「報われる」とは、努力や苦労に見合った成果を得られること。世の中には「努力は必ず報われる」とされているのに、努力しても認めてもらえないと感じる人が多いようです。「一生懸命がんばっているのに、悪くなるばかり」「どうして、こんなにがんばっているのに報われないのか」。こんな悩みをよく耳にします。
人は努力した結果、見合うものが得られたときに「報われた」と感じますが、残念ながら努力の成果は自分でコントロールできるものではありません。
徹夜で作った分厚い企画書より、30分くらいでサラッと書き上げた提案が採用された。何時間もかけて煮込んだ料理より、スーパーで買ったお惣菜のほうが「おいしい」と言われた。
このように、がんばったときよりも、力を抜いていたときのほうがうまくいったという経験は誰しもあるはずです。人生では、「60点の努力をしたから、60点の見返りがある」「80点分がんばったから、80点分の結果が出るはず」のように、努力をした分と同じだけの報いがあるとは限らないのが現実です。

たいしてがんばっていないのに思いもよらない成果が出ることもあれば、努力しても期待どおりにならないこともあります。それなのに、うまくいかないことがあると「自分の努力が足りない」と考えて、もっともっとがんばろうとする。そんな「努力すればなんとかなる」思考にハマッている人が少なくありません。
「努力すればなんとかなる」とひたすらがんばってしまう人は、裏側に「自分は価値がない」という考えが潜んでいることが少なくありません。子どものころに、がんばっていい結果が出たときだけほめられて、あとはひたすら「もっと、がんばれ」と言われ続けた人も少なくないはずです。
そのため、自分のことを「がんばらないと認められない存在」と認識します。つまり、「がんばれば報われる」と信じていると、「がんばらない自分は、認められる価値がない」という意識を強化していることになるのです。
そして、自分を認め尊重することができず、常に他人と比較をして「自分はまだまだだから、もっとがんばらないと」とがんばり続ければ続けるほど「自分は価値がない」という認識を、深く心に植え付けます。あなたに価値があるかどうかは、あなた自身が決めること。自己の価値の判断を、他人に委ねていては、まわりに振り回され続けてますます「報われない人生」になってしまいます。

努力が報われなかったといえば、親鸞聖人です。親鸞聖人は「最も報われない」僧侶であり、そんな報われない現実からこの世の真理を見出し、人生の後半は報われた人生を送ったのではないかと私は考えています。
親鸞聖人は今で言えば、家族の期待を背負って勉強に励んだのに、受験に失敗します。さらに、仏さまの正しい道に近づこうと修行に打ち込むも、「欲望」「怒り」「妬み」などの煩悩を捨てられずに苦しみます。
その上、専修念仏に出会ったのもつかの間、弟子たちの中に反社会的な行動をする者が現れて、教団は解散、島流しにあいます。そうして親鸞聖人は、報われない現実に翻弄される中、同じように悩み苦しむ庶民を救う真理を見出しました その後、親鸞聖人は結婚し、妻との間に4男3女、7人の子どもをもうけ、90歳という長い人生をまっとうします。浄土真宗の教えはもちろんですが、親鸞聖人の生き方そのものにも、現代の私たちが学べることは少なくないのです。