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永命人類の自死

誰のもとにも、死は100パーセントの確率で訪れます。
その当たりまえの事実を受け入れ、死に生かされている自分に気づくことで、生を楽しみ生かすことができるのです。『人生を変えるのに修行はいらない』愛葉宣明氏

こんな芝居にご縁を頂いたことがあります。
その物語の中では、人類が生死について次の2択を迫られていました。曰く、

1.寿命通りに死ぬか
2.テロメラーゼ活性法という手術を受け、「永命人類」として生き続けるか

近未来の設定だったでしょうか。そこではついに人類が「事実上の不死」を手にしていました。「テロメラーゼ活性法」という簡単な遺伝子手術を受けるだけで人は老いなくなる、そういう大発見が女性科学者によってもたらされ、さまざまな批判はあったものの、世間の常識になっていきました。
そこで、選択に迫られるのです。寿命通りに死ぬか、それとも、永命人類になって生き続けるか。手術を受けた段階で老いが止まりますので、若く生き続けたいのであれば若いうちに手術を受けるのが一般的となります。18歳頃、まるで通過儀礼のように、人生の選択をするような世の中になっていきました。
大多数の人類が支持したのは「不老不死」。つまり、「生き続けたい」「永遠の若さが欲しい」「永命人類になりたい」というものでした。
しかし、一部ではやっぱりこんな選択をした人たちもいました。「起こるに任せて寿命で死んでいきます」

大発見をした女性科学者などは、その筆頭でしたが、ここで、永命人類との間にちょっとした軋轢も生まれることになります。例えば、パートナー同士が異なる選択をしたケース。曰く、


Aさん「永遠に家族で一緒に暮らしたいから永命人類になろうよ」
Bさん「永遠の命なんてものにはきっと(心が)耐えられないから、普通に死んでいきませんか」

お互いの愛情に間違いはないハズなのですが、Aさんの主張こそもっともで、それに比べてBさんはあまりその愛情に答えていないようにも見受けられます。
結局このパートナーはそれぞれを尊重。つまりAさんは永命人類になり、Bさんは寿命での通常の死を迎えるという選択をとりました。それでもパートナーです。命続く限り、これからも人生をエンジョイしていこうと誓い合った矢先でした。
永命人類となったAさんが亡くなってしまったのです。交通事故です。この世界線ではAIの著しい発達によって事故発生確率は0パーセントに近いところまで担保されているハズでした。交通事故など、人類はとっくに克服してしまっていたのです。
しかし、起きてしまった。いくら永命人類とはいえ、人体が想定以上の欠損を被ると、医学的に手の施しようがなく、救うことはできないのです。事故によって、永遠の命もろとも消滅させられてしまったようなものなのです。
この事故は、事件の可能性もあったのですが、ほとんど話題にはなりませんでした。というのも、実はそれ以上に社会問題になっていたことがあったのです。それが「永命人類の自死」です。
永命人類とは「死ぬ心配がない人生」です。そういう選択をした多くの人類が、なぜか最終的には永遠の命を捨て、自死を選ぶようになりました。これはどういうことなのでしょうか。

冒頭の引用に戻ります。
誰のもとにも、死は100パーセントの確率で訪れます。
その当たりまえの事実を受け入れ、死に生かされている自分に気づくことで、生を楽しみ生かすことができるのです。

「死」という誰にでも必ず訪れるものこそが自分を生かしているということでしょうか。言い換えるならば、死を失った時、人は生き続けることを放棄する、ということです。逆説的ではありますが、これが事実なのでしょう。

さて、私はこのように聞いております。
人が誰しも経験しなければならない「苦」の代表的なものが四つあります。
すなわち「生苦」「老苦」「病苦」「死苦」の四苦です。
「老」「病」「死」の苦は、なぜ起こるのか、それは「生」があるからです。生きているから、老いることも、病むことも、死ぬことも起こるのです。「生」が終わって、それとまったく異なる「死」が訪れるように思うかもしれませんが、実は「生」と「死」は別々のことではなくて、一つの出来事なのです。
(『現在を生きる仏教入門』古田和弘氏)

結びたいと思います。
今回具体例として取り上げたのは、坂本企画という劇団が2022年に上演した『さよならの食卓』という物語です。
全二幕のこの劇は、一幕の最終盤でAが不慮の死を遂げたことを匂わせた後、暗転を挟んですぐの第二幕、いきなり明るい、ありきたりの日常が描写されます。
Aのいなくなった家で、Bと暮らしているのは、娘。この娘は永命人類になりたいようです。Bは、猛反対します。ここからが物語の核心になってくるのですが、一体どのような結末を迎えるのかを、少しだけ。
娘は、結局永命人類になるのですが、最後の最後の最後の瞬間まで幸せに満ち満ちて生きることができました。死を失った時、人は生き続けることを放棄するハズなのですが、なぜこの娘はそうならなかったのでしょうか。その答え合わせは再演を心待ちにしていただくこととしましょう。

少なくとも、その答えは、私が聞いた、この二つのことと相違ないようです。

「実は「生」と「死」は別々のことではなくて、一つの出来事なのです。」
「死に生かされている自分に気づくことで、生を楽しみ生かすことができるのです。」

南無阿弥陀仏

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