人間とは厄介な生き物で、さまざまな矛盾や不合理を抱えて生きているものだ。
同じ人間が片方で人助けをしているかと思うと、もう一方では不道徳な行いをしていたりする。また、反社会的な生き方をしている人が、こっそりと慈善事業に力を注いでいたりもする。
不思議なものだが、そのどちらがその人の「本心」なのだろうか?或いはどちらもその人なのだろうか?
人間以外の動物には、おそらくこのような2面性や多面性を持つものはいないと思われるので、人間ならではの性質と思われる。ややこしいけど、面白い。
煩悩、執着、愛着は、仏教的にはあまりよろしい事ではないと思われる。修行や瞑想によって、こうしたことから少しでも離れ、超越して無我の境地を得る。
宗派や流派、教義によってその解釈は異なるだろうが、いずれも心の平穏や調和を保つ効果があると思う。
とは言え、我々の暮らしは中々に無我の境地とは程遠い日々だ。煩悩(欲望)である、食欲や睡眠、独占欲にまみれて、今の地位や状況にしがみついて執着し、無くても特に困らないような趣味的な品物を大量にコレクションして、べっとりと愛着を表す。こうしたことは誰にでもひとつや二つ思い当たると思う。
でも、こうした事があるおかげで、働くモチベーションになったり、ストレスコーピングができたりしているのも事実だ。
つまり、煩悩や執着との付き合い方が肝心で、過ぎたるは猶及ばざるが如し。何事も程度が肝要、ということなのだろう。
但し、それらの煩悩、執着、愛着は全てが「無常」であることを忘れてはいけない。その今が、永遠に続くことはなく、絶えず変化することをいつも意識して、例えその地位を失っても、愛する人が去っていっても、大事なコレクションを無くしてしまっても、最小限のダメージでメンタルを平静に保っていけるように、我々僧侶は少しずつでも周囲の人々に「仏教」の教えを嚙み砕いてお伝えしていかなければならない。