悟りを得た者、つまりは仏陀。
ココに真に行き着いた唯一の人間がお釈迦様であり、仏陀とされた。
そのお釈迦様の悟りはこの前宇宙の理のすべてを理解されたと言われており、その心理を説明されたのがお経であり、仏教となって今に至っている。
釈迦様の悟りは唯一無二のものであるとすると、そこに到達しようとするものを菩薩と言い、その52段階をへて仏陀、仏に至る。
私はこの学びを得て思うのは、悟りを目指し悟りに到達するまでの過程に置いてもいくつかの段階を経ていくように悟りがあるということ。
お釈迦様が到達された悟りは宇宙の理の全てを理解するものですから、それ以上でもそれ以下でもない到達点であると思います。
しかしお釈迦様自身も苦悩されたと思いますが、その唯一無二の悟りを弟子に語り説明する際、どうやって解らない、まだ到達していないものへ誤解なく伝えるかという課題があったかと思います。
できるだけわかりやすく、言葉を尽くされ、時間をかけたその語りはお経や方便となって残るわけですが、その数は8万4千と言われています。
それでも後世に正しく伝わっているのはほんの一部かとも感じています。
伝える難しさもテーマとしてはあるのですが、唯一無二の悟りを解説するのに8万4千の話が必要ということは、逆説的に考えていくつもの小さな悟りがあって然りではないかと思うのです。
故にお釈迦様から始まり、七高層を経て親鸞聖人にいたり、数多の高僧らのそれぞれの悟りを経て今、私のもとに仏教があります。
例えば龍樹菩薩は、お経から“空”という概念を悟られました。
例えば親鸞上人は、お経から煩悩は無くならないと悟られました。
例えば一休さんは、お経から人の生きるは死ぬまでの一休みと悟られました。
例えばみうらじゅんさんは、「人は死ぬらしいよ」という仏教で最も大事なことを改めて、衆生に届く言葉を生み出しました。
私はある意味これも悟られた上での布教であると思います。
例えばバガボンドの作者、井上雄彦さん、バガボンド29巻の作中で沢庵和尚を通じて悟りが描かれています。「天によって完璧に決まっていて、それが故に完全に自由だ。」と。
そして、私自身も「人は無能で、無益で、無様である。」にいたり、故に煩悩が生まれ、逃れることができないのが人間であることがわかりました。
これを自ら悟りと言うのははばかられ、慚愧にの念に苛まれますが、菩薩道を歩む一人として、お経により、一つ何かしらの理解は得られたような気がします。
このようにおそらく唯一無二の悟りに到達するには8万4千の悟りが存在しており、それを一つ一つ自分の中に落とし込めば、宇宙の理の全てがわかるのではないかと感じています。
しかしときにそれは顕在意識だけでなく、潜在意識も巻き込むものであり、身体、思考、心、魂に共鳴しわかるものかもしれません。
それはときに突然与えられるように気づく体験をすることもありうるということでしょう。