誰であっても僧侶になれる得度への道をご用意しています。

「この世に未練はない」と思うとき――遠くに救いを求める心

「この世に未練はない」と思うとき――遠くに救いを求める心

書いた人:仏陀倶楽部 会員

「この世に未練はない」という言葉の奥には、現実への失望だけでなく、「ここではないどこか」により良い世界を求める心が潜んでいるのかもしれません。しかし、環境を変えれば本当に苦しみから離れられるのでしょうか。白隠禅師の「坐禅和讃」にある「遠く求むるはかなさ」という言葉を手がかりに、いま目の前にある世界の見え方をあらためて考えます。

「未練はない」という言葉の奥に

「この世に未練はない」……時に、そのような言葉を耳にすることがあります。達観か厭世かは別として、身近な知友からこの言葉を聞くたび、私は胸を突かれます。

昨今の世界を見渡せば、惨禍を極める戦乱や急激な物価高騰、広がる貧富の格差など、心を痛める気持ちも理解できます。ただ、その言葉をそのまま受け止めてよいものでしょうか。

「未練がない」という言葉の奥には、「ここではないどこかに、もっと良い世界があるはずだ」という想いが潜んでいるように思えるのです。

厭世の陰に隠れた希望とも言えますが、果たしてこの現実から逃げ出した先に、私たちが思い描く理想郷など存在するのでしょうか。自身が煩悩を抱えている以上、残念ながら、そのような世界はどこにもないでしょう。

仮に今の環境から逃れて新たな世界に移ったとしても、そこもまた「迷い」を抱えた現在の延長に過ぎず、かえって深い絶望を味わうことになるのではないでしょうか。

世界は、見る心によって変わる

どのような境遇にあろうとも、自らがすでに光に包まれていると気づくか闇と見るかによって、世界の受け止め方は一変します。

いま厭世の気持ちで見つめている娑婆(現実)こそが、慈悲そのものなのかもしれないのです。臨済宗中興の祖と称えられる白隠禅師は、「坐禅和讃」の一節にこう遺されています。

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

自力と他力という道の違いはあれど、ここで示される「遠く求むるはかなさ」とは、「今・ここ」にある真実から目を背け、他処に救いを求めてしまう人間の虚しさを喝破されたものと拝察します。

眼前に広がる世界を見落とさない

今、あなたの心はどこにあるでしょうか。

もし厭世の念に囚われているのなら、今、眼前に瑞々しく広がっている命溢れるこの世界を、どうぞ見落とさぬよう願うばかりです。

自戒を込めて。

仏陀倶楽部では、 日々の迷いや立ち止まりを、
一人で抱えずに言葉にする場があります。

※登録者2,000名超 / いつでも解除可

監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
コラム一覧 → こちら