誰であっても僧侶になれる得度への道をご用意しています。

【お経参究の限界】なぜ知識よりも「南無阿弥陀仏」なのか?親鸞聖人が説いた他力の教え

仏教の教え:完璧な理解が難しい理由

仏教には大量のお経が伝わっており、それら全ては数万にも及びます。そして、それらのお経はお釈迦様の直接の教えというより、当時の対機説法をまとめたものであったり、お弟子さん達の解釈が含まれています。

例えば「蓮の花」という言葉をきくと、蕾であったり、満開に開花した様子、ピンクや白、お釈迦様のイメージなど、色んな情報を思い浮かべることができます。

このように、お経を正確に理解するためには、直接聞いた、もしくはお釈迦様自身の思考、思想を完璧にトレースしなくてはなりません

「諸行無常・諸法無我」がお経にも適用される

こう考えるとお経は、知恵をくれるもの、真理を教えてくれるものであると同時に、それを完璧に理解するには限界があると言えます。諸行無常、諸法無我とお釈迦様が説かれたように、お経の内容、教えもまた、諸行無常、諸法無我です。そして、諸行無常もまた諸行無常で、さらに諸法無我もまた、諸法無我ですね。

お経の研究(参究)を否定するわけではありませんが、私が仏教に傾倒したのは、こうした苦しみ、頑張っても報われない、努力しても結果が出ない、そういう苦しみから開放されたいからです。

頑張れない凡夫を救う「専修念仏」というシンプルな道

そして、浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、そのアプローチとして、参学よりも専修念仏を推奨されました。ただひたすらに念仏を唱える。この最強にシンプルなアプローチは、私のような「頑張れない性分」には、とても有り難いものとなりました。

南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏。そこには研究、参究、解釈、深い理解、身分、性差、老若、年齢…あらゆるものが関係なく誰でもシンプルに実践可能です。

南無阿弥陀仏と思うこと、唱えることは、シンプルすぎて、実践というかも怪しいかもしれません。それくらい易行であるからこそ、誰でも救われるのかもしれません。

親鸞聖人の選択と他力への帰依

もちろん世間的には「南無阿弥陀仏」しか唱えないというのは、評価されないでしょう。現代は自己啓発、自己肯定感等、自己を起点として、スキルを学び実践し成長していくことが強く求められています。目的があって、過程があって、実践があるという考え方が主流です。

だけど、私は南無阿弥陀仏への帰依のみで生きていこうと思います。常に厳しく、自分のための仏教になってないかチェックしていきます。こんな凡夫でも、他力で救われたと言える僧侶になりたいです。

南無阿弥陀仏🙏