宿業とは何か?長年の疑問を払拭した『歎異抄』との出会い
私は医療関係者として、子供の頃から常に感じていた疑問がありました。貧しさから健康を害しても働かなければならない人、優しさゆえに人から利用されてしまう人、犯罪を犯してしまう人。うまく立ち回れる人がいれば、うまく立ち回れない人がいます。簡単に物事ができる人もいれば、一生かかってもできない人がいる。恵まれた環境で生まれる人がいれば、戦地に生まれる人がいます。なぜ人はこのように立場が違うのか、と私はよく考えてきました。
医療現場で感じた「人生の不公平」
この長年の疑問を解消すべく、思うところあって親鸞聖人の『歎異抄』を何度も朗読いたしました。『歎異抄』との出会いで、私の長年の疑問は払拭されたように感じます。それは、「宿業」という言葉でした。
仏教における「宿業」と「業」の定義
「宿業」とは、「前世につくった業(ごう)。現世に応報を招く原因となった前世の善悪の行為」(日本国語大辞典)ということです。
そして、業(カルマ)とは、一つの行為は、原因がなければ起こらないし、また、いったん起こった行為は、必ず何らかの結果を残し、さらにその結果は次の行為に大きく影響します。その原因・行為・結果・影響(この系列はどこまでも続きます)を総称して「業」といいます。
これは輪廻(りんね)思想とともに、仏教にも取り入れられ、人間の行為を律し、生あるものの輪廻の軸となる重要な術語となりました。すなわち、善因善果・悪因悪果の系列は業によって支えられ、その範囲は前世から来世にまで延長された(日本大百科全書)概念です。
「宿業」の解釈:すべての出来事を自分が引き受けるという視点
このような「宿業」の意味を私なりに解釈した結果、私の身の回りに起こる様々な怒り・悲しみ・喜びなどを含むすべての出来事は、まず自分が引き受けるべきものだと考えるに至りました。これは、人生における苦難や不平等を過去の「宿業」の結果と捉え、内観を深める視点です。
対人関係における「宿業」の適用
例えば、対人関係において、相手に嫌なことをされた場合、私は次のように解釈するようになりました。「起こった出来事は私の『宿業』である。相手は相手の『宿業』を生きている。相手はそういう人であり、私が変えることはできないのだということ。私にできることは、自分自身が善因善果に向かって行動をしていけばよいだけだ。」
善因善果を目指す日々の努力
もちろん、努力をしても耐え難く、善行を実践できない時もあるでしょう。しかし、それが現在の結果であるとしても、諦めることなく、できる限りの努力を続けていくことが、未来の善果につながる道だと信じています。
次回予告:『歎異抄』の核心
これに関連して親鸞聖人の『歎異抄』には「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という、非常に重要な言葉が伝えられています。次回は、この言葉の真意と、仏教における救済の深さについて取り上げていきたいと思います。




















