人は一人では生きれないなどといいます。確かに、ある日突然目が覚めたら無人島だったら。私の場合、まず真水の確保ができず正に生きてはいけないでしょう。では、先の言葉を使う方々は、そういう前提で発言しているのかと言えば否で、もう少し社会的な話をしているのでしょう。
日本人の多くは、社会的な生き物になるように教育されて育ちます。これを集団遺伝学では、人間の自己家畜化と提唱することもあります。社会の維持秩序を第一義として、それに反する個や集団を排除することを正義とする動きです。物事の善悪は、所属する集団社会の性質によりますし、より近しい感性や、感覚人たちが集団を形成していくでしょう。いずれにしても、統一された正義であったり幸福というものはなく、そもそも幸福の定義もありませんし、幸福になるべきであるという考えも、個人の価値観で他者を値踏みしているように感じます。
よって、私のような悪人凡夫には真理などなにも見えてはきません。紛争地帯で、両親を殺された子供の憎しみもわかりませんし、金銭的に恵まれ、あらゆる才に恵まれた方の憂鬱もわかりません。なので、人は一人でどうこうというのは主題として大きすぎますし、一定の説得力はあるようで実際はそれほど中身もありません。
人間は未熟児として産まれ、長い年月をかけて社会を学習していきます。繁殖も含め、成体になるのに、およそ15年はかかる動物はいないのではないでしょうか。そういう意味では、確かに一人で生きるというのは難しいでしょう。しかし、かつて子供は生産の糧でした。人権というものも昭和になってからで、口減らしや身売りも普通に行われていました。この世というのは、それほど美しいものでもありませんが、同時に美しい物事を内包もしています。
いま私は運良く、少し物事を考える時間をいただいています。その発言をした方は、どのような意図でそのような発言をされているのか。今一度観察してみたいと思います。





















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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