Report by 釋明淳
社会が眉をひそめる「自己満足」の定義
「自己満足」と言うと、日本人はすぐ眉をひそめます。あれは独りよがりだ、成長が止まる、みっともない——と、決まって悪口が並びます。しかし私は、自己満足こそが、実は最もまっとうな人生の拠り所ではないかと考えています。
もっとも、自己満足にも出来の悪いものがあります。たとえばギャンブルです。
賭場で金を溶かす瞬間、人は確かに満足しているかもしれません。頭を使わず、未来も考えず、ただ運に身を任せていればいい。ですが、家に帰る頃には、その満足は影も形もなくなり、残るのは後悔と、薄くなった財布だけです。
これは満足ではありません。ただの逃げです。
逃げとしての自己満足は「欲」と「輪廻」に繋がる
仏教で言えば、これは「欲」に引きずられている状態です。満たされぬ心が、次の刺激を欲しがり、その刺激が切れれば、再び欲が顔を出します。この繰り返しを、古来より仏教では輪廻と呼びました。ずいぶん大げさに聞こえますが、実際は日常のあちこちに転がっている、満たされない自己満足の形です。
後悔しない「まっとうな満足」とは何か?
一方で、時間が経っても腐らない、後悔しない自己満足というものも、確かに存在します。それは、誰に見せるでもなく、誰に褒められるわけでもない。それでも「今日はこれでいい」と、自分にだけは言える静かな満足です。
このまっとうな満足は、むしろあとからじわりと効いてきます。酒のようなもので、酔いは浅いが、悪酔いしないのです。
明日の自分に説明できるかどうかが境目
この二つの自己満足の違いはどこから生まれるのでしょうか。答えは簡単で、明日の自分に説明できるかどうかです。
「なんであれをやったんだ?」
そう自分に聞かれて、言葉が詰まるような満足は、たいていろくなものではありません。逆に、たいした理由でなくても、「それが自分には必要だった」と言えるなら、それはもう立派な自己満足であり、人生の拠り所となります。
静かな自己満足こそが人生の確かな拠り所
他人の評価で生きる人は、常に忙しいです。拍手が欲しくて走り、無視されれば立ち止まる。承認欲求に支配されているため、歩幅は大きくても迷いが絶えません。
ですが、静かな自己満足で生きる人は違います。歩幅は小さいですが、迷いが少ない。自己満足とは、自分で自分を裏切らないという、ただそれだけの話なのです。
他人に褒められなくてもいい。世間に理解されなくても構わない。それでも胸の内で「これでいい」と言える人生なら、それ以上、何を欲しがる必要があるでしょうか。まっとうな自己満足は、自分自身への深い信頼であり、確かな安らぎをもたらします。

















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
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