「悪人正機」=悪いヤツほど救われる
親鸞の教えの中で、「他力本願」と並んで特徴的なのが「悪人正機」です。
「悪人正機」とは「善人ですら極楽浄土に行くことができるのだから、ましてや悪人が極楽浄土に行くのは当然である」という親鸞の教えです。
フツーだったら「悪人ですら救われるのであれば、善人が救われるのは当たりまえ」と考えるでしょう。
しかし親鸞は、その逆を説いたのです。
これは本当はどういう意味なのでしょうか?
親鸞は「善人(自分で自分を“善人”だと考える人)」は、自分は正しいことを行なっていると考えています。
これはつまり「自力」で善いことをしていると考えているに等しいと教えています。
そして、自分の「善」を誇る人は、阿弥陀様という他力にすがる心に欠けているとしたのです。
一方で「悪人(自分はまだまだ至らないところがたくさんあると考える人)」は、 自分ではどうしようもないことが世の中にあることを知っている。
そして自力ではどうにもならないことについて、他力に頼る気持ちがあるとして「善人ですら救われる」と説いたのです。
親鸞は、煩悩に満ちあふれ、価値観がコロコロと変わる世の中で、本当の善悪の見分けをつけるなど、われわれ人間にはとうていむずかしいと考えました。
たとえば、人を殺すことは最も重い罪だとしても、戦争が始まったら戦わなければならない人もいるでしょう。
それなら、善を求めて善人になろうとするのは、もはや意味がない。
善悪を超えた真実の世界にある念仏を唱え、阿弥陀様におすがりする謙虚な気持ち の持ち主こそ救われて当然だとしたのが、本当の「悪人正機」の意味なのです。

















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
愛葉宣明のコラムはこちら