現世といいますか、生きるということは日々学びだと感じます。
仏縁を頂き、こちらで阿弥陀仏の慈悲を学ぶ機会恵まれてはおりますが、やはり未熟な私は煩悩により、私自身が私自身を苦しめる世界を作り出しております。
親鸞聖人の生きた時代であれば、人災に天災とが重なり、環境的にも今より苦しい時代ではあったと思います。しかし現在では山に行っても山賊は現れませんし、祈祷しなくても病を治してくれる医療も発展し、まだまだ問題があるにしてもセーフティーネットもあり、生存に関しては有利な時代になっているはずなのです。しかし私は、目先の小事に心乱されることが多々あります。
その乱される内容も、世界平和や格差社会に対する憤りに対するようなものではなく、本当に小さな自我の快適性を乱し、不快感を感じている状態だと思います。
前向きにとらえれば、仏が私の過ちを正す為に遣わしてくださった方でしょう。
例えその方を排除したところで、その不快感を生み出しているのは私自身であり、自我そのものも幻のようなもので、同じ問題が繰り返されることは明白です。しかしそれを頭では理解していても尚、私の生み出す世界は不愉快な世界を生み出します。
私の知識的理解と、体感的な快と不快が一致しないことはとても苦しいです。ここでいう快、不快は喜びや悲しみ、怒りといった、一般的な感情と言われる類のものなのです。私のような悪人は、嫌いな人が苦しんでいると快を感じてしまいます。恵まれた人が、ふとした切欠で社会的制裁を受けているのを知ると、やはり快を感じる事があります。自分の考えを否定されると、相手の立場次第で不愉快に感じる事もありますし、何かを成した訳でもないのですが舐められてると感じたら、自身をコントロールできないほど不快に感じます。
改めて文字に起こすと実にくだらない自我なのですが、問題はその反応に支配されていますし、反応の起点である、なぜ、私が私と考える私は、そのことに快や不快を感じるのかが、よくわからないことだと思っています。むしろくだらないと考えることが良くないのかもしれませんし、これは自力の考えなのかもしれません。
いろいろな執着を手放していくにも、まず私はこの快や不快を感じる、得体のしれない何かを手放したいと改めて思います。
南無阿弥陀仏