息子のお友達が時々、家に遊びに来てくれます。小3にもなると皆、集まっても黙ってゲームに熱中するばかりで、親の介入を必要とする事がほとんどなくなったので、私にとっては、お友達が来てくれる方が自分の時間が作れて楽だったりするのですが、近所に住む男の子はうちに遊びに来ると、少しゲームをした後、ボーリングに行こうと言います。
彼らが遊んでいる間に、自分の事をしようと目論んでいた私は、毎回「あんまり時間ないよ?」などと言って諦めさせようとします。1、2時間なんて、ちょっと家事をしていたらあっという間に過ぎ去る時間ですが、常にやるべき事が山積みの私に、その時間を無駄にする余裕はない。それに今から車に乗って、移動して、受付して…などと考えると、1ゲームかよくて2ゲームしたら即帰る事になるため、彼らだってこのまま家にいる方が、ゆっくり遊べるだろうと思うからです。
ですが強引に却下して「〇〇君のママは遊んでくれない」などと、親御さんに言われると困るので、私は渋々いいお母さんぶって了承し、今度はいかにサッと切り上げるか、策を練りながら同行します。ですが、実際に行ってみると毎回、あとこれだけしかないと思っていた時間で、思いの外しっかり遊べる。ちゃんとボーリングして、楽しんで、ポテトなんかも食べて、家にいてゲームをして過ごす1時間より、よほどゆっくりと密度の高い時間が過ごせる。
「時間はあった」と気付かされるのです。
貧しい人こそ布施をするように、というお話があったと思うのですが、時間でもお金でも愛情でも「ない」と思う心が「ない」を生み出しているのだなと感じさせられます。それでもまた「ボーリングに行こう」と言われると、一旦渋ってしまう私。
貧しい心から離れるのは難しいなぁと思いました。





















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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