Report by 細川孝一
誰かのために動くとき、どこかで「感謝されたい」「認められたい」と期待して、見返りがないことに疲れてしまうことはありませんか。本来、奉仕は心を豊かにするものですが、評価を期待したとたんにそれは「執着」へと変わります。仏教が説く「無分別」、すなわち物事をあるがままに捉える智恵。この視点を日常に取り入れることで、なぜ奉仕が「苦」ではなくなり、自然な感謝の循環が生まれるのか。人間関係を穏やかに保つための、根源的な心のあり方を紐解きます。
奉仕の行動はなぜ「苦」にならないのか
私は人のために何か役立つことをすることは、常に自分にとって「苦」にならないと思っています。別に周りから「感謝」されようと思って行っているわけでもありませんが、自然と「感謝」の言葉が聞こえてくるのです。
先日、仏陀倶楽部 愛葉代表がレポートを監修された内容の中で、「無分別」という仏教の教えを「あるがままに事実を捉える」と説明されていました。この「感謝」を述べる方々の言葉には、しっかりとした「無分別」の精神が宿っているのだと思います。
見返りを求めない奉仕と自然な感謝
誰しもが「悪いこと」をしようとか「良いこと」をしようとか考えずに、日常の行動の中で行っていることに、「外面」から見てどのように「分別」され、表現として感じ取れるのか。それが言葉として他者に伝わってしまうことの重要性を見出せたとき、「人の心」を傷つけずに対応できるのだと私は考えます。
私自身、見返りを求めずに奉仕の心を持って行動しているからこそ、相手もまた分別を離れて、その事実を事実として受け止め、自然な形で感謝を表現してくれるのではないでしょうか。
仏教の教え「無分別」が示す真実
これは私の考えですが、仏教から教わる「無分別」も、人として備わってきた「判断力」も、すべて通じるものだと思います。「良いこと」をすれば「感謝」されたり「褒められたり」、また「悪いこと」をすれば「𠮟責」されることは「人の常」ではないでしょうか。誰しも「叱責」を好む人はいませんから、「良いこと」をして褒めてもらおうと思うのが人の常です。
つまり、褒められたいという気持ちは人間の自然な反応であり、分別でもあります。しかし、それを超越して「苦」にならずに行えるのが、無分別の精神です。人の常識的な判断や分別を超えた場所に、仏教の教えがあります。
言葉の重要性:分別と無分別
もし私たちが、日常の行動や奉仕の結果として返ってくる感謝の言葉を、単なる「褒め言葉」として受け取るのではなく、相手が事実をあるがままに受け取った結果の自然な反応であると捉えられたら、それはまさに仏教の教えである「無分別」に通じます。
常識を正しく判断することができれば、仏教の教えに通じることも沢山あると思います。
南無阿弥陀仏。
















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
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