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理不尽の意味とは?不条理との違いと対処法について解説

日々の暮らしの中で、「どうしてこんな目に遭うのだろう」と感じる瞬間は、誰にでも訪れるものです。

努力が報われなかったり、納得のいかない扱いを受けたりすると、心はざわつき、理不尽だと感じるでしょう。

仏教でも理不尽に対しての向き合い方に触れており、人生においては避けられない事象なのかもしれません。

本記事では「理不尽」という言葉の意味とともに、仏教的視点でどのように対処していけばいいのかを解説します。

理不尽の意味とは?

理不尽とは、道理に合わないことや筋が通らないことを指す言葉です。

本来であれば、納得できる理由や正当な筋道があるはずなのに、ある事象あるいは他人に対して見出せないとき、人は理不尽だと感じます。

たとえば、自分に非がないのに叱責されたり、努力しても評価されなかったりする場面は、多くの人にとって理不尽に映るでしょう。

仏教においても、世の中は常に変化を続けているからこそ、思い通りにならないことは特別ではなく、人生の本質の一部と説いています。

理不尽の言い換えや類語はある?

理不尽の言い換えや類語には、以下のような言葉があります。

  • 不条理
  • 不合理
  • 非合理
  • 矛盾
  • 言語道断

いずれの言葉も、物事の筋が通っていないことを指しており、おおよそ言い換え可能です。

理不尽の使い方や例文

理不尽という言葉は、日常生活の中で納得のいかない出来事に直面した際に用います

以下には、いくつかの例文を載せておくので参考にしてください。

  • 一生懸命仕事に取り組んだにもかかわらず、一切評価されず理不尽だと感じた
  • 他人のミスを自分に押し付けて責任を問われ、理不尽な思いをした
  • 上司に理由もなく怒られたのは理不尽だと思う

理不尽と不条理の違いとは?

理不尽の類語としてよく用いられるのが不条理です。

どちらも同じ意味として使われますが、細かく見ると違いがあります。

理不尽は、本来あるべきルールや公平さが守られておらず、おかしさや納得できないことを主観的に感じているときに用いられます。

一方、不条理は、何が悪いとは明確に言い切れず、世界そのものの不可解さに対して表現する俯瞰的な言葉です。

突然の事故や災害が立て続けに起こった場合、理不尽よりも不条理だと表現するほうがしっくりきます。

上記の違いを理解しておくと、理不尽には自身の感情が伴うものとわかるはずです。

そのため、不条理よりも理不尽と感じるほうが、自分を見つめやすく対処もしやすいのです。

理不尽なことだと感じる場面

私たちは日々の暮らしの中で、「どうしてこんなことが起こるのだろう」と感じる場面に何度も出会います。

それは仕事の中かもしれませんし、家庭や社会の中かもしれません。

理不尽さに触れたとき、怒りや悲しみ、やるせなさが込み上げるのは自然なことです。

仏教では、そうした感情を無理に押し込むのではなく、まず「今、自分は苦しみを感じている」と静かに見つめることが大切だとしています。

ここでは、多くの人が理不尽だと感じやすい場面について考えていきましょう。

自分に責任のないミスで上司に怒られる

職場で理不尽さを感じる場面として多いのが、納得できない理由で上司から叱責されるケースです。

例えば、自分が責任のないミスを押しつけられ、十分に説明されないまま感情的に怒られる場合などがあげられます。

本来であれば、責任を負わなければならない人物がいるにもかかわらず、自分が怒られる状況に「なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか」と理不尽さを感じてしまいます。

長男・長女だから我慢しろという理不尽な発言

家庭の中で、「あなたは長男・長女なんだから我慢しなさい」と言われた経験のある方もいるかもしれません。

年齢や立場だけを理由に責任や忍耐を求められると、不公平さを感じるものです。

「なぜ自分だけが我慢しなければならないのだろう」と心の中で反発してしまうのは当然でしょう。

生まれた順番や家庭環境によって人格や価値まで決まるわけではありません。

だからこそ「長男だから」「長女だから」と言われると、その言葉自体にも理不尽を感じてしまいます。

真面目に生きている人が損をする理不尽な世の中

要領のよい人が出世したり、得をしていたりするのを見てしまったとき、真面目に生きていることが理不尽に思えてしまいます

同時に「真面目に生きる意味はあるのだろうか」と虚しさを覚えることもあるでしょう。

真面目に生きている人が損をするのは、多くの人が感じる社会の理不尽さのひとつと言えます。

理不尽にはどう向き合えばいい?仏教的視点から考える対処法

理不尽な出来事に直面すると、どうしても心は揺さぶられてしまい、感情的になりがちです。

しかし、仏教においては、ある出来事をどのように受け止めるのかを重視し、自分の心の見つめ方や考え方を育んでくれます。

ここでは、仏教的視点から理不尽と向き合うための対処法についてご紹介します。

「三界唯一心 心外無別法」という考えを知る

「三界唯一心 心外無別法」は、すべての現象は「心」が創り出しているものであり、実在性のないものという意味の言葉です。

上記は「八十華厳経」の「三界所有唯是一心」に記述されており、より伝わりやすく解釈するなら「私たちが見ている世界は、自分の心のあり方が映し出されている」です。

ある出来事をどれほど苦しいものとして受け止めるかは、自分の心の状態によって変わる、ということを知っておくと、心の苦しみが解放されやすくなります。

あるときは全く気にならなかった言葉が、別の日だと深く傷ついてしまうのは、心の受け止め方が影響しているのです。

「三界唯一心 心外無別法」の考えを活かし、理不尽に直面したときの心の状態を見つめ、ご自身で楽な世界を創り出していきましょう。

怒りが収まらない自分の心を見つめる

理不尽な出来事に対して怒りが収まらない場合、まずは自分の心を見つめる時間を作ってください。

「何に対して怒りを覚えているのだろう」と深掘りしていくと、怒りの奥にある「こうしてほしい」という他人への期待した気持ちが見えてくるはずです。

仏教において「こうしてほしい」といった期待は執着であり、捨てるべきだと説いています。

上記を理解しておくと、一見道理に通ってないことでも自身の理想を押し付けた結果、理不尽に感じていただけなのかもしれない、と振り返ることができます。

もちろん自身に全く責任のない理不尽であれば、意思表明や弁明をしっかりして対処すべきですが、自分の心を見つめるだけでも怒りは次第に落ち着いてくるはずです。

感情にとらわれず自己のあり方を大切にする

怒り・悲しみ・嫌いといった感情にとらわれず、自己のあり方を大切にするのも対策の1つです。

感情にとらわれることは執着であり、仏教においては捨てなければならないものとされています。

特に、理不尽な相手に出会うと「あの人のせいで嫌な気分になった」「どうしてわかってくれないのか」といったように、相手に原因を求めてしまいがちです。

外に原因を求めるほど、自分で解決できないものになり、感情にとらわれやすくなります。

他人の言動は変えられなくても、自分がどうあるかは選べるはずです。

誠実さ・思いやり・冷静さ、自分が大切にしたいあり方を見失わなければ、理不尽にも飲み込まれなくなるでしょう。

理不尽と向き合うデメリットを理解する

そもそも、理不尽と正面から向き合うのはデメリットが多すぎる点を理解しておかなくてはいけません。

不要なエネルギーの消耗、ストレスによる体調不良、我慢したところで状況は変わるわけではない場合が大半です。

しかし、すぐに環境が変えられないなどの理由から、理不尽を受け続けてしまう方も少なくありません。

環境を変えるにもエネルギーは必要ですが、自身が動かなければ好転するチャンスは少ないです。

理不尽と向き合うデメリットを理解した上で、妥協するのではなく避けられる方法はないのかを考えてみましょう

自分の目的や”今”に集中する

お釈迦さまは、過ぎ去った過去や到来していない未来に振り回されず、自分の目的や”今”に集中しなさいという以下のお言葉を残しています。

過ぎ去れることを追うことなかれ。いまだ来たらざることを念うことなかれ。
過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく、動ずることなく、そを見きわめ、そを実践すべし。
ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。たれか明日死のあることを知らんや。
まことに、かの死の大軍と、遭わずというは、あることなし。
よくかくのごとく見きわめたるものは、心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。
かくのごときを、一夜賢者といい、また、心しずまれる者とはいうなり。
引用:厳念寺-一夜賢者の偈-

たとえ理不尽なことがあっても、過去は変えられず、過去に縛られては”今”を大切にできません。

今この瞬間、自分にできることに目を向け、集中することこそ理不尽への最善の対処法だと言えるでしょう。

理不尽さえも成長と考える

理不尽な出来事とどう向き合い、活かしていくのかを考えるほうが自らの成長に繋がります。

仏教では、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という思想があり、人間の欲望や怒りを否定・排除するのではなく、それらと向き合い克服する過程が悟りにつながるとしています

悟り=成長と捉えると、煩悩即菩提を現代でも十分に活かせる考え方になるはずです。

例えば、上司から理不尽に叱責されたのだとしたら、自分は相手の話をしっかりと聞いた上で、理論立てて説明することを意識する、などです。

相手の理不尽に対して怒りや悲しみを持つのではなく、これは修行だと考えて、自分の成長の糧にしていきましょう。

仏教と理不尽の関係性を知る

仏教においても、理不尽は単なる不幸や偶然ではなく、人生の中で避けては通れない現実の1つという位置付けをしています。

ここでは、仏教と理不尽の関係性について知っておきましょう。

理不尽と四苦八苦・一切皆苦

理不尽は、仏教において四苦八苦(しくはっく)や一切皆苦(いっさいかいく)の考えに近いです。

四苦八苦とは、人が生きる上で通れない苦の種類を表します。

苦の種類概要
四苦生苦:この世に生を受けて生きていく苦しみ
老苦:老いることの苦しみ
病苦:病気になることの苦しみ
死苦:死ぬことの苦しみ
八苦(四苦にさらに四つの苦が追加)愛別離苦(あいべつりく):愛する人やものと別れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく):会いたくない人やものと会う苦しみ
求不得苦(ぐふとっく):欲しいものや欲望を叶えられない苦しみ
五陰盛苦(ごおんじょうく):肉体があるがゆえ、人間の存在そのものの苦しみ

四苦は根本苦と呼ばれ、すべての生物が平等に受ける苦しみです。

その上で、人間であることの苦しみを加えて八苦としています。

例えば、理不尽な上司に叱責される苦しみは怨憎会苦にあたりますし、努力しても評価されず報われない苦しみは求不得苦です。

つまり仏教は、私たちが感じる理不尽さを特別な不運としておらず、生きる上で避けがたい苦しみの一部として捉えているのです。

一切皆苦は「世の中のすべては苦しみである」という、四方印と呼ばれる仏教の基本的教義を構成する一句です。

一切皆苦を取り入れるならば、理不尽もまた苦しみの一部であり、生きている上で起きてしまう事柄なのだとわかります。

理不尽と因果応報

仏教では、「因果応報」という言葉があります。

ただしこれは、善い行いをすればすぐ報われる、悪い行いをすればすぐ罰が当たる、という単純な意味ではありません。

物事の結果は、さまざまな原因や条件が複雑に重なって生まれます。

そのため、一時的には損・得をしているように見えても、それだけで全体を判断することはできないのです。

仏教は、目先の結果だけに心を奪われるのではなく、どのような種をまいているかを大切にするよう説いています。

その種はやがて自分に返ってくるものだと考えれば、理不尽さに振り回されない生き方が見えてくるようになる、と仏教を通して学べるはずです。

正しい考え方で理不尽と向き合う

理不尽は道理に合わない・筋道の通っていないことを指し、外に原因を求めるよりも、自分の気持ちとどのように向き合っていくのかが大切です。

仏教では、生きること自体が苦しみであり、理不尽もまた避けがたいことだと教えています。

理不尽なことに出会ったのなら、まずは自分の気持ちに目を向け、どのような感情・考えを抱いていたのかを理解しましょう。

その上で、期待や執着からきているのではないか、自分の成長として捉えるならどうすればいいかと思考を切り替え、理不尽さえ自らの糧にしてください。

仏陀倶楽部では、上記のような仏教の教えをもとに、生きやすくする智慧を共有しています。

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監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

愛葉宣明 著 『仏陀経営』ほか
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