無欲を求めた先に待っていた「無気力」という試練
最近、思うことがあります。無力と無欲の違いです。よく聞く言葉で『足るを知る』であったり、『この世の全ては空である』という教えがあります。もちろん空と無は異なるかもしれませんし分かり得ませんが、私も最近は物欲に関してはあまり興味がなくなってきたのですが、気力も一緒になくなってきました。
物欲や煩悩を遠ざけようと努力しているのに、なぜか行動するためのエネルギーまで失ってしまう。この状態は果たして、仏教が説く「無欲」なのか、それとも単なる「無力」や「無気力」なのか、その境界線で戸惑いを感じています。
悟りを得たお釈迦様の「不可思議」なエネルギー
この戸惑いの中で、お釈迦様の存在が不可思議でなりません。お釈迦様はあらゆる煩悩から抜け出しても尚、無気力になることもなく、生き続けたのです。これは、本当の意味での「無欲」が、活動や奉仕を止める「無力」とは全く異なる次元にあることを示唆しているのではないでしょうか。
他力本願の道における「欲」の捉え方
私たちが歩む浄土真宗の道は、阿弥陀様の不可思議なお力によって救い上げていただく他力の道です。この教えでは、必ずしも自力で欲を根こそぎ捨てる必要はありません。むしろ、欲や煩悩に囚われている自己を自覚することが重要となります。
何かを捨てて、その結果として心が苦しくなるようでは、やはり解釈や実践において何かが間違っているのかもしれません。無欲を求めすぎた結果、生きる意欲そのものを削いでしまうことは、仏教の最終的な目的とは異なります。
苦しい感情こそが与えられた試練
今はとりあえず苦しい気持ちですが、それも私に与えられた試練だと受け止めています。この苦しみは、私が無欲と無力の区別をまだつけられていないこと、または、煩悩即菩提の真意を理解しきれていないことから生じているのかもしれません。
この無気力感と、今しばらく向き合ってみたいと思います。この内観を通じて、真の無欲とは何か、そして他力によって活かされる生き方とは何かを深く学んでいく所存です。
南無阿弥陀仏






















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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