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「人生を変えるのに修行はいらない」を読んで

初めてのレポートです。
いきなりですが、私にとって「宗教」というのは長い間「キリスト教」を軸にしたものでした。
何度も教会へとアプローチし、迷いましたが結局45歳になるこの歳までクリスチャンになることはありませんでした。

15歳で単身アメリカに留学し、縁あって私はペンシルベニア州レバノンというド田舎で3年間ファームステイをしながら高校に通うことになりました。そこはキリスト教原理主義のアーミッシュという現代文明を使わずガス・電気・水道・車・テレビ・アメリカ教育などを拒否し、自分たちのコミュニティで自給自足をし、古いドイツ語を共通言語としている人々が多く暮らす街でした。

私はメノナイト派というアーミッシュよりやや戒律がゆるい宗派の家族のもとに身を寄せ、彼らとともに暮らすことになりました。通ったのは普通の公立高校でしたが、黄色人種はおろか黒人すらいないという土地で、私はたった一人の異人種、異言語、異教徒、異文化の童貞丸出しの男子高校生活をスタートさせました。

3ヶ月ほど経って、なんとか英語もそれなりに分かるようになり、友達もできはじめました。周りは私がメノナイト派の家族と暮らしているのを知っていましたから、日本から来たとは言え、キリスト教徒であると思っていましたし、実際に家族の付き合いで毎週教会にも通っていました。英語で自分の宗教について語るようなスキルもなかったので、なんとなくそう思われていたのです。デザレイというフランス系の、それは素晴らしくきれいな白人の女の子がその当時自分をとてもよくサポートしてくれていました。

今考えればキリスト教的ボランティア精神なのでしょうが、私からしてみれば「これぞアメリカの青春」という気持ちでおりました。

ある日、図書館で彼女に勉強を教えてもらっていたところ、「進化論」の項目が出てきたのですが、彼女は「ここはいいや。飛ばそう」と言いました。私は「どうして?」と聞くと、真っすぐな目で「だって嘘の話だから」と言ったのです。私は一瞬自分がリスニングを間違えたのかと思い、もう一度聞きなおすと「アメリカでこんな嘘の教育を教科書に載せているのはおかしい。これを教えている教師もおかしい」と言ったのです。

私は「何がおかしいの?」と素直に聞くと、「もしかしてあなたは進化論を信じているのか?」と言うので「そうだよ」と答えました。彼女は信じられないという顔で「そんなのクリスチャンとは言えない」というので、「僕、クリスチャンじゃないよ。日本人でクリスチャンなんてほとんどいないけど」と極めて頭の悪いストレートな回答をしました。彼女は絶望のような、気持ち悪いものを見るかのような顔になり「悪いけど、あなたとは友達でいられない」と言いました。僕は状況が分からず「え?」と言うと「地獄に行く人とは友達ではいられないから」と言い、その後3年間結局彼女とは和解できないままとなりました。

これが私と「宗教」とのファーストコンタクトです。
15の私にとって、これが良くも悪くもキリスト教的精神で形作られた世界との出会いであり、戦いの始まりでした。
善と悪が明確に分けられ、「信じる者」は救われ「信じない者」は地獄に行く、という何とも矛盾に満ちた世界線で、私は「信じない者」=仲間ではなく死んだあとに行く場所も違う者として認識されたわけです。

ここから私はキリスト教的世界をどう捉え、どう理解し、どう沿っていくかということを毎日毎日勉強し考えました。もう少し素直な人間であれば「じゃあとりあえず入信します」と言えば、楽だったかも知れません。しかしどうしても、どう考えてもキリスト教の考え方が自分の腹におちることはなかったのです。

私はそれから一生懸命仕事をしたり、結婚をしたり、子どもが生まれたり幸せがありつつも、大きな病気をしたり、病気で日々の生活費まで捻出できない状態になったり、妹が自殺未遂をしたり、叔父が琵琶湖で自殺をしたり、それなりの辛酸をなめながら生きてきました。

生きるということは現実に違いなく、今この瞬間をどのように生き、考え、感じるかということにエネルギーを注いでいくことが必要だと思うのですが、キリスト教はどちらかというと、死んで神の国に行くために「生」があると考えます。時間軸も死んだあとを「永久の命」として長く考え、重要視します。だから金を儲け、美しい妻を持ち、いいものを着て、成功者として生きる人も、病気をし苦しみ差別され地を這って生きる人も「どう生きるか」ではなく、「信じるか否か」なので現世においては大した話ではない、ということになります。

ヨブ記で有名なヨブなど熱心な信者でありながら、神自らが悪魔と結託し、ヨブの家族を殺し、病気を与え、家畜を殺し、周辺を死と苦しみで囲いその信仰を試すのです。けれど「死んだら神の国だね、良かったね」という理解でいるわけです。言ってみれば「生」が極限まで軽い世界です。

ところがやはり私がフォーカスしたいのは、「今生きていることの喜びや苦しさ」であり、「どのように生き、どのように人と関わり、どのように死に向かって次を紡いでいくのか」ということです。
仏教や親鸞聖人の教えは、自分がフォーカスしたい「生」にピントをあわせてくれたような気がします。
「人生を変えるのに修行はいらない」を読みながら、自分の人生に照らし合わせて、様々なことを考えさせられました。
「そもそも仏教はとても合理的に考えられた教え」という章が特に気付きが多くありました。お釈迦様の教えは一切皆苦という前提があり、その「苦」を遠ざけ「今」をイキイキと過ごすための教えが仏教です。というこの一文。これだけで人間の「生」と人間そのものの可能性と力を信じるエネルギーが沸き上がっているような気がします。「生」を託されているという気さえします。
また「科学的には『明日が来るかどうか分からない』がほんとう?」という章では、だからこそ今を精一杯生きるというごくごく単純な視点が本当に大事なのだと感じました。

上記を長々と書きましたが、お分かりの通り、私はキリスト教をベースとして考えてきた期間が長く、またキリスト教国であるか否かは関係なく日本含め世界のスタンダードな考え方の基本もキリスト教にあると言っていいと思います。
キリスト教はルターの宗教革命後特に「言葉で定義する宗教」の側面が強くなりました。心がどう捉えるか、本心ではどう感じているかよりも「言葉」で宣言すること、定義すること、説明することの方に力点を置きます。アメリカがどれだけ差別が多かろうと、他国に戦争を仕掛けようと、LGBTQを商売の道具に使おうと「愛・平等・平和」を言葉で言ってしまえば、問題はなかったことになります。

逆に批判するときも聖書をひたすら引用し「~であるからこれは正しい、あるいは正しくない」と言い切ることが可能になります。そして「我が神の言葉である『聖書』の解釈を一番正しくできており、ゆえに私は正しく死んで神の国に入る」という死んだあとの道すらも堂々と宣言することができますし、正しい強者の理論で世界をリードしたりコントロールしたりすることに躊躇がなくなります。
それで世界が幸せで楽しく平和であれば何の文句もありません。ですが現実は違います。どうやらたったひとつの明確な正解なんかないらしいぞと薄々気付いていても、言葉による正解を定義してしまっている以上、薄々気付いている心は無視されてくすぶり続けます。

それに対し仏教は世界を作ったのは誰で、この世は今後どうなるというような預言の説明もありません。言葉による明確な正解もありません。しかし、「今」を全力で生きるテクニック(というと語弊があるのかも知れませんが)正解なき世を、ある部分では阿弥陀様にお任せしながら、ある部分では仏教の教えを自分なりに駆使して生きていく。正解があることを前提に生き、死ぬのではなく、全員が生きるという修行をしながら、正解にたどり着こうとする途中にいるのだ。ならば儀式としての、あるいは宗教の型としての「修行はいらない」ということなのかなと思いました。

そしてまさにそれこそが、今後一層価値観が崩壊して正解がなくなっていく、この世を生きる上で必要なのではないかと思います。
もちろん、キリスト教に照らし合わせた仏教の解説を英語でできるのは自分の役目じゃないか、この考え方を広めるのは成功のチャンスじゃないかなど下衆な下心や打算がないと言えばウソになります。その際得度をして、お坊さんという肩書を曲がりなりにも持っておけば説得力あるしな、という気持ちも当然あります。

しかし仏教的ベースがない外の世界や、ベースがあってもそれを生かせていない今の日本に対しどれだけ伝えていけるのか、日々苦心することもワクワクする挑戦であり、生きがいになるでしょう。
既存の修行ではなく、この本で書かれているような日々の生活を生きることを通した仏教の教えを、残りの人生の柱とし、広めていきたいと思っています。

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