従来の形式に則った法事を維持するのは容易ではありません。しかし、供養の本質は儀式の豪華さにあるのでしょうか。母の十三回忌に、投稿者が選んだ場所は思い出の「競馬場」でした。故人の好物を手に、一人で過ごす時間は、一見すると法事とは無縁に思えます。しかし、そこには仏教が説く「追善供養」の深い智恵が隠されていたのでした。
形式にとらわれない十三回忌の供養の形
先日、母親の十三回忌を迎えました。私にとって十三回忌といえば、大学生のときに経験した祖父の十三回忌が印象的で、良い思い出になっています。いわゆる法事的な儀式はそこそこに、法事が終わった参列者全員でボーリングに行き、その後は居酒屋で宴会をしたのでした。
酒が好きで酒で寿命を縮めた祖父にとって、親戚一同が集まった十三回忌という名の宴会の開催に、祖父は大喜びしただろうと当時の私は思ったのでした。この形式にとらわれない供養の形こそが、祖父を偲ぶ最善の方法だったと感じています。
故人を偲ぶ「私だけの命日の過ごし方」
その思い出があるので、母親の十三回忌の日は同じようにしようと私は考えていました。親戚は遠方かつ高齢で集まれる人数も限られるため、形式的な法事は控えることにしましたが、母が好きだったものを存分に楽しむ命日を送ることにしました。
私は母に競馬を教わったため、母に初めて中学生のときに連れて行ってもらった競馬場を訪れました。母が好きだった酒と料理を持ち込み、平日昼間の競馬場で一人の宴席を開催したのです。これは、私の心を込めた追善供養の試みです。
私としては充実した時間になったのですが、あとは母が喜んでくれることを願うばかりです。仏教の教えでは、故人のために積む善行はその功徳が自分にも還ってくるとされています。この命日の過ごし方が、母と私、双方にとっての功徳となることを信じています。
















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
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